峰隆一郎 新潟発「あさひ」複層の殺意 目 次  一章 殺 人  二章 調 査  三章 連 鎖  四章 恋 人  五章 二 号  六章 容 疑  七章 逮 捕  八章 自 白  一章 殺 人     1  帖佐奈央《ちようさなお》は、上越新幹線『あさひ三○八号』に乗っていた。車内は半分ほどが空《あ》いていた。もっとも長岡あたりでほぼ満席になるのだ。  彼女は体をシートに埋《う》めていた。実家が新潟にあるのだ。母一人子一人である。その母が入院していた。長い入院である。母の入院のために奈央の人生は変ってしまった。親は子供の人生を変えることがあるのだ。  列車は、十時四十分に新潟駅を発車した。上野に着くのが十二時三十六分、約二時間である。東京と新潟は意外に近いのだ。それでも四、五ヵ月に一回しかやって来ない。あまりその気になれないのだ。新潟に帰るときには気が重い。そして帰りの新幹線に乗ったときには何だか義務を果したような気持になる。  奈央はいま三十歳になる。東京で大学を卒業して、会社に就職した。そのころはごく普通の女だった。大学を卒業して二年目に父親が病死した。心臓が悪かったのだ。  母一人が新潟にいる。しきりに奈央に帰って来い、と言っていた。だが、一度東京に住んでみると東京が離れられない。新潟とは時間の流れが違うのだ。東京の時間の流れに体が合ってしまっている。  もちろん、東京なんか人の住むところじゃない、と田舎に帰ってしまった人も多い。そういう気持もわからないではないが、東京のリズムが奈央の体に合っていたのかもしれない。  新潟で高校のころの友だちに会うと、みんなオバさんになってしまっている。結婚して子供の二人くらい生んで、のんびりと暮している。化粧気もなく、育児と生活にくたびれ果てたような顔をしている。それでいて倖せそうな表情をしている。  時間がゆったりと流れ、人だけが年とっていく。友だちは自分が年とったことに気付かない。自分のためには生きていないのだ。親や夫や子供たちだけのために生きている。もちろんそれで満足なのだ。彼女たちがお婆《ばあ》さんになったときの顔も想像できる。  そしてたいした波乱もなく人生を終っていくのだ。そういう人生を思うと、ああいやだ、と思う。こういうのを十年一日の如く、というのだろう。  母親が入院した。それまでは母は働いていた。その収入がなくなり、奈央は送金しなければならない。もちろん、OLとしての生活は給料でぎりぎりだった。  奈央は仕方なく水商売に入った。それだけの容姿は持っていた。銀座のクラブのホステスになった。ホステスという仕事も、思ったよりもつらい仕事だった。客を掴《つか》まなければならない。媚態《びたい》も見せ、客を魅《ひ》きつけなければならない。当然、客は誘ってくる。それをむげに断ることもできないのだ。  ときには肉体を提供しなければならないのだ。客を魅きつけておくにはさまざまなテクニックがある。もちろん、OLのときよりも収入は三倍か四倍になる。だが、それだけの衣裳も揃えなければならないし、化粧品だって以前のものとは異なるのだ。  クラブに遊びに来た男が奈央に目をつけた。東景ハウスの社長|赤座昌也《あかざまさや》だった。二号になれと言った。クラブのママも勧めた。あるいは奈央はホステスに向いていなかったのかもしれない。  赤座は、すでに二人の二号を持っていた。二号、三号、四号とナンバーをつけるとすれば、彼女は四号ということになる。もっとも赤座は四人の女を持っていたという。そのうちの二人は他の男と結婚したのだ。  奈央は、赤座の四号になった。楽な道を選んだことになる。赤座にだけ奉仕していればいいのだ。多くの客を相手にするよりも、そのほうが楽なのに違いない。  いま、というより四号になってから、ずっと赤座は奈央が気に入っている。奈央は、川崎市の麻生《あさお》というところに住んでいる。家は赤座のものである。奈央が一人で住むにはもったいないような家である。それに加えて五十すぎのお手伝いが一人ついている。  楽な暮しである。もちろん、母に送るには充分なお手当がもらえるのだ。  麻生の家から小田急線の鶴川駅に出るまで、歩いて五、六分である。  まるで上流階級の奥さまのような暮しだ。お手伝いは奈央のことを奥さまと呼ぶ。  三十になっても、まだ二十七、八とみえるほど若かった。第一、彼女には生活臭というものがない。女を主張していれば、それだけでいいのだ。  だが、どこかむなしかった。充実感がなかった。もちろん、恋人はいる。赤座の相手をしているだけでは間がもたないのだ。赤座は一週間のうち一日か二日やってくる。二号、三号のところにも行かなければならない。もちろん、自分の家にも帰るのだろう。  一週間のうち六日は何もしないで生きていく。やはり時間をもて余してしまう。  奈央は窓外に目を移した。一人の男の顔が浮かんでくる。それほどに好きなのだろうかと自問する。  彼女は、用を足すために席を立った。トイレはどっちだろう、と思う。どうやら後ろのようだ。通路を後ろに歩いていく。さっき長岡を発車したばかりだった。多くの乗客が乗り込んでくる。  ドアが開いた。左が洗面所で右に二つのトイレが並んでいた。手前のトイレは使用中となっていた。先のトイレに入る。列車のトイレというのは好きではない。ゆさぶられていて体が安定しないのだ。  用を足してトイレを出る。隣りのトイレの入口に女が倒れていた。何だろう、と思った。ドアは女の腰のあたりを挟《はさ》んで半開きである。女の腹のあたりから血が流れ出ている。 「キャーッ」  と叫んだ。客席とのドアが開き、男が立っていた。その男と目を合わせた。男がかがみ込み、女に、 「どうしました?」  と言った。すると、女は、 「ジョ」  と言った。その声は奈央も聞いた。 「ジョ、って何ですか」  と男が言った。だが女は応《こた》えなかった。ぐったりなっていたのだ。男は女の手首を握った。そして瞼を指で開いた。そして目を覗《のぞ》き込む。男は奈央に、 「車掌を呼んで来て下さい」  と言った。  奈央はすくみ上っていたのだ。は、はい、と言って、十二号車に走る。この車輌は十一号車だった。ほんとは十一号車から十号車のほうに行くべきだったのだが、そこには女が横たわっていて男がいる。  十二号車には車掌はいなかった。もどって来てみると、そこには車掌が来ていた。 「十一時二十一分でした」  と男は奈央に言った。彼女には何のことかわからなかった。つまり女の死んだ時刻だったのだ。 「この方とぼくが第一発見者です」  と男が車掌に言った。車掌は、 「お二人とも、そこを動かないで下さいよ」  と言って走り去った。男と奈央は顔を見合わせた。 「仕方ないですね」  と男は言った。四十すぎの白髪まじりの品のいい男だった。殺人事件の第一発見者になった。それを仕方ないですね、と言ったのだ。  面倒なことになる。警察にいろいろと聞かれるのだ。上野まで座席にもどれそうもないのだ。車掌がもどって来た。 「いま、高崎と上野に連絡しました。すみません、そのままお待ち下さいますか」  まさか逃げ出すわけにはいかない。女の腹から流れ出した血はアメーバのように、床を這《は》っていた。車体が動くので流れ出た血は、床をあちこちと這いまわるのだ。  女は腹を刺されたようだ。仰向《あおむ》けに倒れていれば出血も少なかったのだろうが、うつ伏せに倒れた。そのためにナイフはよじれて腹を抉《えぐ》るようになったようだ。 「肝臓を刺されたようですね」  と男が言った。もっともそこに立っているだけで死体には触れられないのだ。  高崎から、鉄道警察隊員が二人乗り込んで来た。現場保存のためである。車掌と隊員が何か話合っていた。車掌が奈央と男に、 「座席にもどられてけっこうです。でも、上野駅に着いてもそのまま坐っていて下さい」  と言った。  奈央は席にもどった。倒れている女を見たとき体が震《ふる》えた。腰が抜けそうだった。男がいなければ彼女は坐り込んでしまっていただろう。女の体の下から血が流れ出ていた。あれほど大量の血を見たことはない。血は生きているもののように動いていた。  人が殺されたのを見たのもはじめてだ。犯人はまだ近くにいたのかもしれない。トイレを出るのが二、三秒早かったら、犯人と鉢合わせしていたのかもしれないのだ。     2  上野西署の財津《ざいつ》捜査課長は、芳原《よしはら》、井上の両刑事を連れて、上野駅に向った。『あさひ三○八号』がホームに滑り込んで来た。ドアが開いて乗客が降りる。むこうのデッキで車掌が手を振っていた。  三人は足を早めた。十一号車、列車の後方だった。その乗降口だけは客がいなかった。先に鑑識課員が来ていた。列車はすぐに移動させなければならないという。  死体を担架に乗せた。被害者の荷物が財津の手に託された。死体が運び出される。腹に刺さったナイフはそのままである。解剖のとき抜き取られるのだろう。  ナイフは、大塚の監察医務院から鑑識に回されることになる。死体の発見者が二人いた。もっとも二人が発見したときには、被害者はまだ生きていた。  男は、岡田という内科医だった。それで死亡時刻ははっきりしていた。女のほうは帖佐奈央と言った。妙に色っぽいところのある女だった。  列車を降り、ホームで事情を聞いた。帖佐のほうは隣りのトイレから出て来たところだった。一呼吸あって帖佐が叫んだ。岡田は、トイレに行こうとドアを開けたところだった。それはお互いに証言した。  二人に事情を聞き、連絡先を聞いて帰ってもらった。上野西署まで連れていくこともなかったのだ。もちろん帰ってもらう前に、電話で二人の身元を確認した。  被害者の身元はすぐにわかった。朝永真弓《ともながまゆみ》、三十一歳だった。すぐに朝永の家に連絡が取られた。電話に出たのは母親らしい女だった。その母親は人違いでしょう、と言った。 「真弓は友だちと一緒に京都に旅行しているはずです」  と言った。念のために来てもらうことにした。ついでに真弓の夫朝永|弘史《ひろし》の会社の電話番号も聞いた。そして朝永にも電話した。被害者の確認をしてもらわなければならないのだ。  財津は自分の椅子《いす》に坐った。はじめから殺人事件とはっきりしていた。腹にナイフが突き刺さっていたのだ。事故や自殺であるわけはないのだ。  被害者は、死ぬ前に、�ジョ�と言った。岡田も帖佐も同時にそれを聞いている。�ジョ�とは一体何なのか。  被害者は何よりも自分を刺した犯人の名前を言うものだろう。�ジョ�がダイイングメッセージになった。  ジョとは一体何なのか、まず考えられるのはジョージという名前である。ジョージと言いたかったのが、ジョだけであとは声が続かなかったということか。  芳原刑事がそばに立った。彼は警部補で三十八歳になっていた。パワーのある刑事だった。 「課長、京都にいるはずの被害者が、なぜ新潟からの上越新幹線に乗っていたのですかね」 「その事情はすぐわかるさ。それよりも被害者はなぜ右腹を刺されたのかな」 「犯人は左|利《き》きということですか」 「それも考えておかなければならんな。あるいは右利きでも相手の肝臓を狙《ねら》ったのかもしれんな」  犯人は被害者と向い合う。右手にナイフを持っているとすれば、左腹を刺すことになる。左腹では刺された者はすぐには死なない。病院に運ばれれば、助かる可能性が強い。右腹の肝臓をやられれば、数秒で死ぬことになる。  朝永真弓はどうやって刺されたのか。用を足してドアを開ける。そこに犯人が待っていて刺した。真弓は外へ出ようとする。だが出きれないで、ドアに腰を挟まれた。列車のドアの開け閉めというのは、わりに力を必要とするものだ。  肝臓でないところを刺されたのなら、トイレの外へ出て助けを求めることができる。もちろん真弓も助けを求めて外に出ようとしたのだ。  犯人は、はじめから真弓の肝臓を狙っていたのか。殺意があるとすれば肝臓を狙うだろう。殺すとすれば心臓を狙うところだろうが、心臓は小さいし、高い位置にある。心臓を狙うにはナイフを振り上げなければならない。  心臓よりも肝臓のほうが大きい。それにナイフを腰だめにすれば、そのまま体をぶっつけるだけでナイフは刺さる。刺しやすいのだ。確実でもある。  だが、右手で肝臓を刺すには技術がいるのではないか。体を左側に移動させなければならない。左利きならば体ごとぶっつかることで肝臓を刺せるのだ。おそらく犯人は左利きだろう。 「芳原くん、第一発見者の岡田と帖佐を一応洗っておいてくれ、第一発見者がそのまま犯人ということもあるからな」 「わかりました」  と芳原は去っていく。  明日、捜査本部が開設されるだろう。それまでにできるだけ情報は入れておきたかった。  井上順次巡査部長がやって来た。彼は四十五になっている。叩き上げの刑事だ。 「課長、被害者の身内がみえましたが」 「そうか、署長はいるのかな」 「外出中のようです」 「だったら、署長室に案内してくれ」  わかりました、と井上刑事は去っていく。まだ死体は解剖からもどって来ていない。捜査課はがさつである。一般人は落ちつけないだろう、という配慮からだ。できるだけ多くの情報を入れたい。  井上刑事に一緒に来るように言って、署長室に入った。わりにましな応接セットが置いてあった。  そこに、三十なかばと思える背の高い男と五十をすぎた女がいた。女は朝永真弓の母親だろう。男は朝永弘史、真弓の夫である。 「真弓であるはずはありません。真弓は京都に行っているんです」  と母親は叫ぶように言う。 「まあ、遺体はまだもどって来ておりませんので、まず真弓さんのことをお聞きしたいのです。まあ、掛けて下さい」  と二人に言い、財津は自分から先に坐った。 「お知らせを受けて、京都のホテルに電話しましたが真弓は宿泊していませんでした」 「いいえ、真弓は京都です。別のホテルに泊っているんです。今日夕方には帰ってくることになっています」  母親は娘の死を認めたくないようだ。 「一緒に京都に行かれたのはどなたです」 「青井さんという真弓とは高校のころからの友だちです」  井上刑事は真弓の手帖をめくっていた。 「ありました。青井|良子《よしこ》さんですね」  ええ、そうです、と母親は言った。財津は井上に目で合図した。井上は応接室を出ていく。  青井の欄には二つの電話番号が並んでいた。一つは住まいの電話、一つは勤務先の電話だろう。井上は捜査課に入ると、ダイヤルを回した。五度の呼び出し音でもつながらない。もう一つに電話した。 「はい、新英トラベルです」  と言った。旅行代理店らしい。青井良子さんをと言うと、しばらくお待ち下さい、と言って、電話が移った。 「はい、青井ですが」  と言った。 「上野西署の者です。朝永真弓さん、ご存知ですね」 「ええ、友だちですけど」 「さきほど、上越新幹線の列車の中で亡くなられました」 「えっ、真弓が」 「遺体は解剖中でまだもどって来ていませんが、ほぼ間違いないでしょう。いま、真弓さんのお母さんとご主人が見えています」 「わかりました。すぐにそちらに行きます」  と言って電話は切れた。  署長室にもどった。 「青井さんは、すぐこちらに来られます」 「でも、青井さんは、真弓と一緒に京都に」  母親は認めたくないのだ、真弓が上越新幹線に乗っていたのを。真弓は京都に行くと言って新潟に行っていた。それが何を意味するのか、さっしがついていたのかもしれない。  夫の弘史は、妙に冷めたい顔をしていた。彼もまた真弓が新潟にいた事情を知っているのかもしれない。  刑事が、遺体が着いたことを知らせに来た。母親は、ガクンと音をたてて立ち上った。腿《もも》をテーブルにぶっつけたのだ。  母親と夫を連れて、地下の霊安室に入る。母親は、 「真弓!」  と叫んで遺体にすがりついた。  夫弘史は、真弓に間違いありません、と言った。そこに友だちの青井良子がとび込むように入って来た。そして遺体を見ると、 「真弓」  と呟くように言った。  遺体を自宅まで運ぶ車は警察で用意する。 「青井さん、残っていただけますか、お聞きしたいこともありますので」  と財津が言う。良子は、はい、と言った。美人ではないが、体つきのすらりとした女だった。真弓と高校が同じだったとすると三十一歳か。  遺体は車に乗せられた。その車に母親と弘史が乗る。良子はその車を見送った。     3  青井良子は、捜査課の隅にある古いソファに坐った。三十女である。女盛りだ。坐ると腿が太かった。キャリアウーマンであるせいか、若く見えた。良子の前に財津が坐った。 「タバコ、いいですか」  と彼女は言った。財津は、どうぞ、と言い、刑事の一人に灰皿を持って来るように命じた。アルミの灰皿である。良子はバッグから煙草を出すと、ライターで火をつけた。百円ライターではなかった。 「ごめんなさい、落ちつかないものですから」 「けっこうです。気持を落ちつけて下さい。ショックだったでしょう」 「ショックでした。真弓が死ぬなんて。それに殺されたなんて」  もちろん、ナイフで刺されたのが死因と言ってある。 「高校が同期だったんですか」 「ええ。当時は友だちもたくさんいましたが、いま、つき合っているのは真弓だけです。よく誘い出しては、お酒をのんでいました。ご主人がガチャガチャ言わない人ですから、真弓はわりに自由だったようです」 「何か思い当りませんか、真弓さんが殺されたことについて」 「まさか、殺されるなんて」 「真弓さんが、新潟にいたことについて、何か思い当りませんか」  良子は黙った。 「これは殺人事件です。脅《おど》すわけではありませんが」 「おそらく、行友《ゆきとも》さんです」 「もう少しくわしくお願いします」 「行友|圭一郎《けいいちろう》、たしか四十二歳とか。真弓の恋人でした」 「なるほど」 「今度は、あたしには何の連絡もありませんでした」 「今度は、とは?」 「真弓は、ときどき新潟に行っていました。そのときはたいていあたしにアリバイを頼んで行ったのですが、馴《な》れたんですね。あたしには何も言わないで行ったみたいです」 「行友圭一郎というのは?」 「製薬会社の東京本社にいたんですが、二年前に新潟支社に転勤になって、単身赴任していました」 「すると家族は東京に」 「ええ、奥さまとお子さん二人」 「すると、両方とも不倫ですか」 「真弓、いまのご主人では、何かもの足りなかったんだと思います。同じ男でも、夫としてみるときと、ただの男としてみるときとは全く違うんですね」 「どういうことですか」 「生活してみると、不満がいくらもあるんですけど、生活しないところでは、よく見えるのかもしれません」 「ということは、ご主人のほうにも恋人がいたということになるんですか」 「ええ、真弓は、夫には女がいるみたい、と言っていました。それで新潟の行友さんとは続いていたんだと思います」 「すると、ご主人は、真弓さんの浮気を知っていたとも考えられますね」 「だと思いますけど、わかりません」 「弘史さんは、恋人が好きで結婚したいと思っていた。それには真弓さんが邪魔になる。できれば、真弓さんにいなくなって欲しい」 「朝永さんが犯人だと言うんですか」 「そういう可能性だってあるわけでしょう」  財津は、妙に冷めたい朝永の顔を思い出していた。 「それにもう一つ、新潟の行友さんが殺したとも考えられますよ。もう四、五年もつき合っている。行友さんは真弓さんに飽《あ》きた。そろそろ別れたいが、真弓さんが別れてくれない。女というのはのめり込んで来るとうるさいらしいですからね」 「そうなんですか」 「いや、例えばの話ですよ。そういうこともあり得るということです。われわれはみんな疑ぐってかからなければなりませんのでね」 「もう少しロマンチックに考えられないんですか」 「例えば?」 「真弓は胸をドキドキさせて新潟に行ったと思うんです。好きな人に会うのですから。何もない人生から見ると、光り輝いているんじゃないんですか。たしかに夫への後ろ暗さはあるんですけど、それだけに行友さんに会ったときの感激は強いと思いますけど。ただ惰性《だせい》で新潟に行っていたんじゃないと思うんですけど」 「なるほど、そういうこともあるわけですか」 「遠く離れていればいるほど、恋心はつのるんじゃないかしら」 「失礼ですけど、青井さんは独身ですか」 「ええ、まだ独り者です。でもそれほど結婚には執着しないんです。男の人を好きになるということは素敵なことです。いつもフリーでいたい。するといつでも男の人を好きになれますから」 「真弓さんは、夫がいるのに他の男を好きになった?」 「人それぞれでしょう。不倫には不倫のよさがあるんじゃないかしら」  財津は、青井と不倫論をかわすつもりはなかった。真弓の手帖には、行友圭子という名で載っていた。一度書き直してある。東京から新潟へ移ったからだろう。  青井にはお引きとり願った。行友圭一郎のことがわかっただけでも収穫だった。夫の弘史に女がいることもわかった。  一応、容疑者は、行友圭一郎と朝永弘史の二人が出て来たことになる。 「不倫か」  と財津は呟いてみた。不倫には不倫のよさがある、と青井良子は言った。なるほど、不倫にはよさがあるのだろう。  だが、財津は不倫なんてことは考えたことはない。女と言えば妻だけだ。妻以外の女を抱けると思ったこともないのだ。妻以外の女を抱く、その光景を妄想して、彼は唇をゆがめた。  翌日——。 『上越新幹線殺人事件捜査本部』ができた。本部長は署長である。捜査主任には財津がなった。警視庁から十人の刑事が応援に来て、捜査陣は二十六人になった。  その場で第一回の捜査会議となった。  証拠は、被害者の腹に刺さっていたナイフ一本だった。刃渡一○センチ、登山ナイフと呼ばれるものである。折りたたみ式ではなく、革の鞘《さや》のあるナイフである。もちろん鞘のほうはなかった。ナイフの柄から指紋は検出されなかった。いまどき指紋を残すような殺人犯はいない。指紋は拭ったのではなく、はじめから手袋をはめていたようだ。  創傷は一二センチまで達していた。ナイフの長さが一○センチ、腹には弾力がある。思いきり刺せば傷は一二センチにもなる。ナイフは肝臓を破っていた。  二人の刑事が、加害者と被害者の立場に立って、定規で腹を刺す真似《まね》をした。体を左に移動させて刺せば刺せないことはない。だが、左手で刺したほうがうまくいく。まず、犯人は左利きではないか、と議論になった。たしかに左利きのほうが刺しやすい。もちろん、暴力団員など刺し方を知っていれば、右手でも充分に刺せる。  また、すれ違いざまに刺すのなら右手でなければならないという意見も出た。少し左側に寄って肩と肩とが触れ合うような形になって刺す。右手で肝臓を狙って刺したのだという意見も半数ほどあった。  犯人は左利きだとは限らないのだ。もっともいまでは左利きの人は多い。五人に一人は左利きではないのか。テレビで見ていても、左手に箸《はし》を持ったり、左手で字を書く人は多いのだ。ということは、左利きは決め手にならないということだ。だが、一応は頭の中においておくべきだろう。  次に、第一発見者の岡田|啓治《けいじ》と帖佐奈央はいまのところは、被害者とは関係ない。だがどこでつながっているかはわからない。一応は捜査員をつけることにした。  最後が、被害者のダイイングメッセージである。発見者の二人は�ジョ�と聞いている。刺されて死ぬとき、刺されてとは限らないが、死ぬ前に口にする言葉は犯人の名前だろう。  それは一致した意見だった。�ジョ�とは何なのか。被害者は岡田に声をかけられて、�ジョ�と言った。そのあとも言ったつもりだったのだろうが、発見者二人には�ジョ�としか聞こえなかった。もちろん、人の名前だったのだろう。  一人ではなく、二人一緒に聞いたのだから間違いないだろう。�ジョ�と聞いてまず思い浮かぶのは、ジョージだろう。城之内もあると刑事の一人が言った。ジョ、ジョと呟いても、あとは出て来そうになかった。特殊な名前なら他にもあるのだろう。 「主任、わたしを新潟にやらしてくれませんか。行友圭一郎という男に会ってみたいんです」  と芳原刑事が言った。アリバイだけなら新潟署に連絡して確かめることはできる。だが、被害者が会いに行った男である。どういう人物かを確かめておきたかったのだ。  いまのところ容疑者は二人いる。行友圭一郎と被害者の夫の朝永弘史である。夫の弘史のほうはこちらで確かめられる。  芳原と井上は、すぐに上越新幹線に乗った。できれば日帰りにしたかった。事情によっては泊りになるかもしれない。  列車は動き出した。 「新潟まで二時間、近くなったものですね。新幹線ができる前は、五時間くらいかかっていたんじゃないですか」  と井上部長刑事が言う。 「ジョ、とはわかりにくいね、もう少し言ってくれればいいのに」  と芳原警部補が言う。芳原は三十八歳。井上は四十五歳になる。七歳も年下だがランクは芳原のほうが上なのだ。言葉使いにもランクの差が出て来る。  二人は別々のことを考えていた。     4  新潟に着いたのは午後一時すぎだった。二人の刑事は駅の近くで昼食をとった。行友の会社は、西堀通四番町というところだ。駅からバスが出ている。そのバス停のすぐ近くらしい。会社に電話して場所は聞いておいたのだ。  この新潟では古町というところが盛り場のようだ。西堀通四番町から古町は近い。 「井上さん、単身赴任というのはどういうものかね」 「そうですね、生活を二つ持つということですから、経済的には大変でしょうね」 「東京と新潟はたった二時間」 「でも、経済的には遠いんじゃないんですか。週休二日でも、毎週帰るというわけにはいきませんね。単身赴任というのは、札幌でも新潟でもたいして違いはありませんね。家に帰れるのは、せいぜい月に一度でしょうね」 「井上さんの言い方だと酒もあまり呑《の》めないということになるね」 「それなりの大衆酒場はあるんでしょうからね。給料はわれわれよりいいはずでしょうがね、たいした違いはありませんよ」 「われわれは給料が安いと言ってもデモもストもできないからね」  二人は駅前からバスに乗った。そして西堀通四番町で降りる。首を回してみると目当ての会社はすぐにわかった。新潟支店である。ビルの二階を借りているようだ。  ドアを開けて、近くにいる人に行友圭一郎さんを呼んで下さいと頼んだ。行友は次長と言った。支店長代理というところか。わりにスマートな男が出て来た。  芳原はちらりと警察手帖を出した。 「上野西署の者です。朝永真弓さんのことで少しお聞きしたいのですが」  朝永真弓が殺されたことは知っているはずである。行友は応接室に案内した。狭い部屋だった。そこに応接五点セットが置いてあった。女子事務員がお茶を運んで来た。 「さっそくですが、朝永真弓さんが殺されたことはご存知ですね」 「ええ、新聞とテレビで見ました」  四十二歳、中年男としての魅力はあるのだろう。髪に少し白いものが混っていた。 「真弓さんとは、どのような関係だったんですか」 「もうご存知なんでしょう。だからここまでおいでになった」 「それをあなたの口からお聞きしたいんです」 「男と女の関係ですよ。二、三ヵ月に一度ですからね、たいしたことはありません」 「お知合いになったのは、いつごろですか」 「三年ほど前ですかね、ぼくの従妹《いとこ》の紹介です。従妹の友だちだったんですね。はじめはぼくのほうから電話して誘いました。従妹の名前を使ってね。わりにいい女でしたから、興味を持ったんです。彼女もぼくに興味を持っていてくれました。そして男と女ですから、なるようになったんです。東京では月に二、三回会っていました。こちらに転勤になってからは、二ヵ月に一回、三ヵ月に一回くらいですからね。たまに会えるのがいいのかもしれませんね」 「二十三日の十一時ころは、どこにいました」 「アリバイですか、もちろん、サラリーマンですから会社にいましたよ」 「ずっと会社ですか」 「ええと、出かけたかな」  と行友はポケットから手帖を出した。そしてペラペラとページをめくった。 「そう二十三日には、高橋さんと北沢さんに会っていますね」 「時間は?」 「午前十時に高橋さんと喫茶店で会っています。午後一時には北沢さんと。なにせ営業ですからね、毎日、人と会っています」  高橋と北沢の連絡先を聞いた。 「単身赴任というのは淋しいでしょう」  と井上が声をかけた。 「でも、馴《な》れるものです。生活は馴れじゃないですかね。もっとも馴れないと生活していけませんのでね」 「真弓さんがうるさくなったことはありませんか」 「ぼくが真弓を殺したと言うんですか」 「人を疑ってかかるのが仕事ですから」 「まとわりついてうるさい、と思うほど会ってはいませんからね。彼女にも家族があることですし」 「彼女のことで何かご存知のことはありませんか」 「さあ、ただの女だと思いましたけどね。ぼくに対しては恋したとか愛したとかということではなかったと思うんですがね。生活の中に変化を求めていたんじゃないんですか」 「ご主人のことは喋りましたか」 「さあ、ほとんど喋らなかったと思いますよ。ぼくも聞かなかったし。お互いに家族のことには触れないんです。情事なんて生活とは別のところにあるんでしょう。ぼくも自分の家庭のことは話したくないし、彼女も話したくはないでしょう」 「まあそうでしょうね、お互いに会っているときは家庭人ではなく、男と女でしょうからね」 「そうです。お互いに数時間、夢見るだけですよ。そのあとは自分の生活にもどっていく」 「都合のいい関係ですね」 「都合が悪くなるともつれて来ますよ。もつれはじめるといやですね」 「真弓さんとはもつれなかったんですか」 「ええ、うまくいっていました。どうしても会いたい、抱きたいというのではありませんでしたからね。もちろん、彼女から、明日、新潟に行くと電話があるとうれしいですがね。ぼくが彼女を呼ぶわけではないんです。彼女が自分からやって来るんです」 「東京でお会いになることは? 自分の家に帰ったときなど」 「それはありませんでしたね。女房の目が光っていますから。それに東京に行っても時間がないんです。時間を作って無理に会おうというほどの気持はありませんでした」 「彼女のご主人に愛人がいたことはご存知でしたか」 「いいえ、そんなことは知りませんでした。女性がいたんですか」 「あなたとの関係がはじまってからか、その以前なのかはまだわかっていませんが」 「そうですか。だから彼女はぼくを求めたんですかね」 「ところで、�ジョ�という言葉に何か思い当ることはありませんか」 「ジョって何ですか」 「何かわからない。真弓さんのダイイングメッセージです」 「ジョニーウオーカー、ジョニ黒、酒の名前ですがね。死にぎわに酒のことなど言うわけありませんよね」 「ジョニー、なるほど名前ですね。ジョニーと呼ばれていた男。本名でなくあだ名でもいいわけだ。何か思い当りますか」  行友は首を振った。 「真弓さんの口から、それに似たことを聞いたことは」 「ありませんね」 「あなたは酒を呑まれるんでしょうね。何を呑みますか」 「ぼくは何でもいいほうです。日本酒、ビール、焼酎、ウヰスキー」 「新潟では、どのあたりで呑むんです」 「やはり、古町ですかね」 「会社の方とよく?」 「ええ、会社の連中とも呑みますし、取引き先の人とも呑みます。酒呑むのも取引きのうちですからね」 「なるほど、接待ですか」 「それもありますね」  芳原は井上と目で合図した。 「お忙しいところを、どうも」 「わざわざ新潟までおいでになって、ご苦労さまでした」  と行友は言った。多少は皮肉もこめているのだろう。  二人の刑事は会社を出た。 「行友はシロですかね」  と井上が言った。 「そう簡単に容疑から外れてもらっては困るね」  二人は公衆電話を探した。幸い電話ボックスがあった。高橋に電話する。二十三日、午前十時に高橋に会っている。三十分くらい話して別れたという。 『あさひ三○八号』は、十時四十分に新潟駅を発車する。行友は高橋と別れて、十分間で『あさひ三○八号』に乗れる所にいたのか。 「すみません、ちょっとお会いできませんか、行友さんのことでおうかがいしたいことがありますので」  と言った。高橋は、よろしいですよ、と答えた。新潟市役所の玄関でお会いしましょう、と言う。市役所は古町十字路にある。歩いてもそれほど遠くないと言った。     5  高橋は六十歳くらいのよく肥《ふと》った精力的な男だった。もちろん頭は禿《は》げ上っている。高橋は芳原と井上を近くの喫茶店に誘った。 「酒呑むにはまだ早いですからな」  と言った。珈琲を三つ頼む。 「行友さんとは、よく酒を呑まれるんですか」 「わりに呑みますね。むこうは接待費を使えますからね。もちろん、私のほうで払うこともありますが」 「高橋さんはお元気そうですね」 「といっても、あっちのほうは弱くなりましたよ。少し呑みすぎると立たんのですよ。ですから、その予定があるときには、あまり呑みません。せいぜいビールか、水割り二、三杯ですな」 「行友さんはどうです」 「酒にも女にも強いですな。男として盛りでしょう。もっとも仕事のほうもできる人のようですが」 「行友さんには女は?」 「もちろん、いますよ。遊び方も上手でしてな、いまは誰だったかな。沼田マミ、そうマミだった。OLですがね、夜は酒場でアルバイトをやっている女で、まだ若いんですよ。二十四とか言っていました」 「その沼田マミさんの連絡先はわかりますか」 「わかりませんな、行友さんなら知っているだろうけど」 「その店はどこですか」 「まだ、この時間では」  と腕時計を見た。 「場所だけ教えてもらえば」 「そうですな、では地図を書きましょう」  と高橋は手帖のページを破って地図を書きはじめた。どうやら料理屋らしい。 「それで、二十三日、行友さんとは何時に別れられました?」 「さっき電話で言った通り、十時に待ち合わせて三十分くらいでしたな。だから、十時半に」 「そこから、駅までどれくらいかかりますか」 「そうですな、タクシーなら七、八分で着きますやろ」  十時半に別れて、タクシーで七、八分だと『あさひ三○八号』に乗れるのかもしれない。行友にははっきりしたアリバイはないことになる。 「その沼田マミさんが働いている会社はわかりませんか」 「さあね、そこまでは。行友さんに殺人の容疑でもかかっているんですか」 「そういうわけではありませんが、殺された朝永《ともなが》真弓さんとは愛人関係にありましたのでね、一応ははっきりさせておきたいんです」 「朝永さんという人も、行友さんの女だったんですか」  新幹線の事件は知っていたが、行友の愛人だったことは知らなかったようだ。 「彼女のことはお聞きではなかった?」 「行友さんは、自分の女のことを得意になって喋るような人ではないんです。いや、男というのは、酒と女が駄目というのでは、信用できませんな。ああ、さっきは店はまだ開いていないと言いましたが、料理屋だから開いているでしょう。もっとも、沼田マミは来とらんでしょう。まだ会社のはずですから。わしなどは、夜しか行かないものですから、バアやクラブと勘違いしていますよ」  高橋とは喫茶店の前で別れた。 「行友にはアリバイがあるというわけではないようですね」 「あとは午後一時に北沢と会ったと言った。『あさひ三○八号』に乗って、真弓を殺して新潟までもどって来れるかどうかだね」  歩きながら井上は手帖を開いた。 「死亡時刻は十一時二十一分でした。刺されたのは長岡を過ぎてからです。犯人は高崎まで行かないと列車を降りられません。高崎着が十一時四十七分。高崎から新潟にもどるには『あさひ五一一号』十一時五十一分がある。これが新潟に着くのは十三時四分です。一時の約束には間に合いませんね」 「なあに、十分くらい遅れたのかもしれない。田舎の人は気が長いからね、十分や二十分はゆっくり待つんじゃないかな」 「それも確かめたいですね」  東堀通に『鍋茶屋|光琳《こうりん》』があった。料亭ではあるが、大衆的な店だった。たしかに店は開いていた。店に入って警察手帖を見せて沼田マミのことを聞いた。自宅と会社の電話番号を教えてくれた。店の電話を借りて、会社に電話した。マミはいた。話を聞きたいと言うと、六時に『エトアール』という喫茶店にいてくれ、ということだった。この店は古町にある。店の人にその場所を教えてもらった。  店を出て、また公衆電話を探した。店先の赤電話を見つけ、北沢に電話した。幸い北沢は会社にいた。  二十三日の午後一時に、行友と会ったと言った。 「失礼ですが、行友さんはちょうど一時に姿を見せましたか」 「だったと思いますがね」 「よく考えて下さい。十分か二十分遅れませんでしたか」 「そうだったのかな、そうだったのかもしれませんね」  はっきりしなかった。東京の人なら十分待ち合わせに遅れてもキリキリするところだ。十分遅れたとすれば、行友は真弓を殺して新潟にもどって来れることになる。 「アリバイはありませんね。参考人として来てもらいますか」 「東京まで来てもらうには、会社を一日休まなければならない。本署に来てもらうにはもう一つ何かが足りないな」 「何が足りないんですか」 「殺しの動機だよ、いまのところでは動機は考えられない。二、三ヵ月に一回新潟に来ていたのでは、うるさいというほどではない。不倫を隠すためにとは言えないな。沼田マミもいることだし」 「動機というのは、見えないところにあるのかもしれませんよ」 「かもしれないな」  マミに会うまでには、まだ時間があった。それで新潟署に足を向けた。あいさつもしておかなければならないし、上野西署の捜査本部にも電話を入れておきたい。  もちろん、行友を本署に呼ぶかどうかは、捜査主任が決めることでもある。新潟署の捜査課にあいさつした。そして電話を借りる。財津主任は捜査本部にいた。行友にアリバイがないことを話した。 「印象はどうだった」 「わりに悠然としていましたよ。これから行友の恋人に会うことになっています」 「今日中に帰れるのかね」 「帰れると思います」 「もう少し、行友は様子を見たいな、行友の恋人に会ったあと、何かあったら電話してくれ」 「そちらの朝永弘史のほうはどうですか」 「こっちも、いま一つはっきりしないな。まああわててもしようがないだろう」  そこで電話を切った。  六時に『エトアール』に行くと、坐っていた若い女が立ち上った。二人づれだから刑事だと思ったのだろう。もちろん刑事は一般人とはどこか違う。 「沼田マミさんですか」  と声をかける。彼女は、ハイ、と言った。小柄な可愛いところのある女だった。彼女は上越新幹線殺人事件のことは知らなかった。朝永真弓が殺されたこと、行友圭一郎と真弓の関係も喋らなければならない。 「そんなことぜんぜん知りませんでした」 「朝永真弓のことも行友さんから聞いていない?」 「はい、はじめて聞きます」 「行友さんとは、ぼくたちもさっき会ったばかりですが、どういう人です」 「奥さんとお子さんがいます。いい人です。そんな人殺しをするなんて」 「行友さんを好きですか、朝永真弓という愛人がいたとしても」 「ええ、あたしと一緒にいるときだけ、あたしの行友さんであればいいんです。結婚できるとも思っていませんから」 「行友さんのことは、何も知らない?」 「知らないほうがいいということもあるでしょう。そんなに深く知らなくてもいいんです」 「男と女は、男と女であるだけが一番いいのかもしれませんね。その生活まで踏み込んでしまうと面倒になる」  男と女は体を重ねるだけで成立するのだ。よけいなものは絡《から》まないほうがいい。  沼田マミは、何も知っていそうになかった。行友は四十二歳、マミは二十四歳、十八歳も齢《とし》が違う。だが齢の差も関係ないようだ。 「二十二日は行友さんには会わなかったんですね」 「ええ、その前の週の土曜日、二十日に会ったばかりでしたから」  会えば体を重ね合うだけか。それとも愛の囁きくらいはするのか。行友とマミの間にどんな会話があるのだろう。そこまでは聞けない。 「もし、行友さんが東京本社にもどったとしたら、東京まで会いに行きますか」  マミはほんの数秒考えた。 「そのときになってみないとわかりませんけど、あたしは行かないと思います。きっと」  行友に抱かれていても、そこまではのめり込んでいない、ということだろう。  二章 調 査       1  一年前の八月である——。  東京プリンスホテルの十二階、ホールの入口に『赤座昌也出版記念会』と黒い板に白書きされていた。  赤座は東景ハウスの社長である。七十二歳になった。自伝を出した。その出版記念会である。  会場には三百人近い人が詰めかけていた。赤座の知人、友人、会社関係の人たちである。東景ハウスの社員たちも来ていた。東景ハウスは赤座が築きあげて来た会社である。もちろん、法律すれすれのことをやってきたのに違いない。いまでは、札幌、名古屋、大阪、博多に支社を置き、社員数は二千五百人といわれている。  それだけやってきた人だから、自伝の一冊や二冊は出したいのだろう。もちろん、ゴーストライターがついている。  立食パーティである。赤座があいさつしたあとは乾盃をして雑談になった。音代俊行《おとしろとしゆき》はホールを出た。外にはソファが並んで置いてある。待合所なのだ。  そこには二人の社員が坐っていた。俊行は、疲れるね、と言ってそばに坐った。 「課長はまだ三十代でしょう。疲れるなんて言ってはいけませんよ。社長は四人目の女を囲ったそうですよ。四人の女の家を回るんだから絶倫ですよ。七十二歳になって現役ですからね」 「おい、ほんとに現役なのかな。ただ女の体を撫《な》でまわしているだけじゃないのか」  ともう一人がまぜっかえす。 「できないのなら、四人も女がいなくったっていいだろう。できるんだよ」 「だとすれば怪物だよな」 「羨《うらやま》しいな、おれなんか女房一人をもて余しているのに」 「並みの男でないことだけは確かだな。だけど社長はやはり三人目がいいらしいな」 「美人だからな。四人目はしばらく楽しんで社員に押しつけるんじゃないのかな」 「拝領妻か」 「会社にも、社長の女を押しつけられた男は何人かいるらしいぞ。第二営業部長もその一人だというけどな。拝領妻をもらうと出世できるらしい。札幌支店長の奥さんも、むかしは社長の女だったらしい」 「おい、それほんとかよ」  と俊行は言った。 「ただの噂ですよ。でも煙は立っているんですよ。出世したければ、社長の女を女房にすることだな」 「だったら、麻生《あさお》がいいな。あの女だったらいいよ」  三人目は川崎市の麻生に屋敷がある。そこに住んでいるから麻生と呼ばれている。麻生は新興住宅地である。歩いて五、六分で小田急線の鶴川駅に出る。社長はこの麻生まで通ってくるのだ。  好きな女のところなら、どんなに遠くてもいいのだろう。もっとも社長の家は成城学園にある。自宅からならそれほど遠くはないのだ。麻生に家を買った。そこに女の一人を住まわせている。それだけのことなのかもしれない。  一人の和服の女がドアから出て来た。客を送りに来たのだ。エレベーターの前で女が頭を下げる。 「噂をすれば影だな。あれが麻生だよ。おい、遊んでいるところをみつかると減点だぞ」  と言って二人の社員はドアから入っていく。俊行は、その麻生を何となく見ていた。どこかで見たような女だな、と思っていた。女のほうから、歩み寄って来た。 「音代さんでしょう」  と言われて、俊行はピンと立ち上った。そして女の顔をまじまじと見た。 「きみは、奈央ちゃんか」  帖佐奈央だった。つき合っていたのは四年ほど前だった。女というのは変るものだ。特に和服姿だからわからなかったのだ。 「いや、見違えたな。きれいになった」 「女も四年経てば変るものよ」 「そのようだな。いや、驚いたよ。きみがね」 「そんな目で見ないでよ。音代さんはどうしてここに?」 「おれは東景ハウスの社員だよ」 「ほんとに? 知らなかったわ。それにしては会わなかったわね」  立ち話だった。人に見られてはよくない。社長の愛人が会社の社員のむかしの恋人ではサマにはならないのだ。 「ねえ、ゆっくりお話したいわ。どこかで待ってて。むかしよく行った新宿の『武蔵野茶房』はまだあるかしら」 「あると思うよ」 「そこで待ってて、会が終ったら行くわ」  と言って奈央は背を向けた。俊行はその後ろ姿を見ていた。たしかに彼女は大人になっていた。あのころはまだ女ではなかったのに、と思う。  俊行は、ソファに坐り直した。そしてキャスターに火をつける。 「まさか」  と呟いた。まさにまさかだった。知り合った六年前、奈央は二十一か二の大学生だった。新宿で従妹《いとこ》に紹介されたのだった。従妹も大学生で同じ大学だった。  奈央がさっき言った喫茶店『武蔵野茶房』でよくデートしていた。そのころはまだ女の子だった。はじめて抱いたとき、 「ごめんなさいね、あなたにあたしのはじめてをあげられなくて」  と言った。その言葉がぴったりのような女の子だったのだ。もちろんバージンではなかった。だが、それほどには男に馴れていなかった。ういういしかった。  そのころの奈央を思い出す。もちろん、そのころ俊行は結婚していた。長男が生まれる三ヵ月ほど前だった。  まだ過去を振り向くほどの齢《とし》ではないが、奈央が過去からやって来たのだ。やはりそのころのことを思い出す。もちろん、奈央も俊行に妻がいることは知っていた。  青春の一ページに奈央がいた。あのころまだ青春だったのかなと思う。会えば体を重ねた。そういう関係だったのだ。二年ほど経って奈央はふっといなくなった。けんめいになって探すほどの仲ではなかった。  もしかしたらお見合いでもし、結婚したのかと思った。それならそれでよかった。お互いに別れは言いたくなかった。だから、奈央も黙って消えたのだろうと。従妹にも奈央がどうしたのかは聞かなかった。聞けば何かを告げたのだろうけど。聞かないのがエチケットでもあったのだ。  そうして別れてから四年しか経っていない。その奈央が社長の妾《めかけ》になっていようなどとは思いもしなかった。  さなぎから蝶にかえったように変っていた。美しい魅力的な女になっていた。社長の妾になったのは、それなりの事情があったのだろう。事情があったので黙って消えたのだろう。  男に磨《みが》かれてあのような女になったのだろう。女は変るものだ。たった四年で。奈央の姿がまぶしいくらいだった。奈央でなければ、俊行など遠く手の届かない女だった。もちろん奈央でなければ俊行などには目もくれなかったろう。そんな女になっていた。  いまの奈央と四年前の奈央とが重なり合わないのだ。奈央にはそういう素質があったのか。四年前までの奈央はただの女の子だった。身長はわりにあった。一六○センチくらいはあっただろう。一応の体つきはしていたが、やはり普通に結婚して普通の人妻になるのだろうと思っていた。  体を重ねても、まだ悦《よろこ》びもそれほど知らなかった。姿を消す少し前からオルガスムに達するようになった。  もしかしたら、おれの責任かな、と思ってみる。女の悦びを知らなければ、社長の妾になどはならなかったのかもしれない。  俊行は、奈央に女の悦びを教えてしまったのだ。女の人生を変えてしまったのか。と思うと呵責《かしやく》を覚える。  彼はホテルを出ると、新宿に向う。『武蔵野茶房』も彼女と別れてからは、ほとんど行っていない。店があるかどうかもわからないのだ。店がなくなっていればその前で待っていればいいのだ。  新宿駅を降り靖国通りを渡り、その裏道に入る。『武蔵野茶房』はまだあった。ホッとして店に入る。何だかむかしに返ったような気がする。  三十分ほどして奈央が入って来た。和服から洋服に着換えて来た。プロポーションがいい。バランスが取れていた。 「何だか、むかしを思い出すわ」 「まだ、四年しか経っていない」 「もう十年も経っているような気がするし、つい昨日のような気もする」 「きみは変った」 「たしかに変ったと思うわ、どう変ったの」 「きれいな蝶になった。ぼくなんか近くに寄れない感じだ」 「あたしを軽蔑しているんでしょう」 「ひがむなよ、そんなわけないじゃないか。生きていればいろいろあるさ」 「いま、どうしているの」 「四年前と変らないよ。昨年、課長になったけどね」 「そう課長さんなの。同期の人に比べると早いんじゃないの」 「だろうね。子供が二人にはなったけどね」 「いいパパなんだ。そんなことはいいわ。ねえ、お酒のみに行きましょう」  と奈央は席を立った。     2  奈央が連れていったのは、会員制のクラブだった。クラブと言っても銀座のクラブとは違う。バニーガールのいる店である。そのバニーがホステスなのだ。店にピアノが据《す》えてある。わりに落ちついてお喋りできる店でもあった。  ボトルと氷が運ばれてくる。バニーが水割りを作る。料理はエスカルゴにした。腹はあまり空《す》いていなかった。  グラスを上げてカチンと合わせる。 「懐しいわ」  と奈央が言った。俊行が懐しいのか、四年前の自分が懐しいのか。 「いや、ほんと、きみがこんな近くにいるなんて、きみを探したんだけどな」  探したわけではなかった。全く探さなかった。探すほどにのめり込んではいなかった。 「父が死んで、母が入院して」  その先は言わなかった。言ってみてもどうしようもないのだろう。  俊行もそれ以上は追及しなかった。 「四年前にもどったみたい。もっとももどれないけど」 「奈央はきれいになった」  それしか言うことがないようだ。こうして会ってみると、たくさん話があるようで何もなかった。何か話せば赤座社長に触れることになる。そのことは避けたかった。奈央も赤座のことは話題にしたくないのだろう。 「あんなところで、俊行に会うとは思ってもいなかった」 「何かの運命のようだな」 「そう運命なのよ」  こうして見る奈央の体つきも変った。あのころはただの女だった。奈央は変った。だが俊行はほとんど変っていない。奈央と別れてからは、女房以外には女の体には触れていない。仕事が忙しかったせいもある。もっとも女と遊ぶ金もなかった。もともと俊行はそれほどの遊び人でもなかったのだ。 「あたし、きれい?」 「きれいだよ」 「魅力ある?」 「すごく魅力的だよ」 「そう、だったらあたしを抱いて」  えっ、と俊行は声を出した。奈央を抱くなんてことは考えていなかった。四年前までは自由に抱けた。いまは社長の女である。女がまるで違っていたのだ。 「あたしを抱くのがこわいの」 「そういうわけじゃないけど」 「あのころだって、奥さんはいたんですものね」 「ぼくはかまわないよ、でも」 「パパのことなら気にしないでいいの」 「だけど、奈央が男と遊んでいるのを知れば黙ってはいないだろう」 「知れなければいいんでしょう。それにあたしにとって俊行は、ただの男ではないんだもの。それともパパがこわい?」 「そうでもないけど」 「もう、ホテルキープしてあるの。あなたに会ったとき、あたしはあなたに抱かれるつもりだったのよ」  どうしても赤座が出てくる。避けては通れないようだ。もちろん、俊行には社長が気になる。いま一番、社長が気に入っている女だという。 「奈央にそう言われて、ぼくは戸惑っているんだ」 「そう、何分で決心できるの?」  四年前までは奈央は自由だった。だが、いまは赤座社長の持ちものだ。もちろん奈央には大金を掛けていることだろう。彼女を抱けば盗むことになる。 「もちろん、決心なんていらないよ。ぼくだってそのつもりさ。ただ、ぼくからは言えなかっただけだ」 「よかった。断わられたらどうしようと思っていたの」  そう言って奈央は笑った。笑顔もまたセクシーだった。 「だったら、早いほうがいいわね」  と席を立った。店を出てビルの外でタクシーを拾った。奈央がホテルの名を言った。車に乗る。スタートすると、彼女は俊行の手を握って自分の腿の上に乗せた。肉付きのいい熱い腿だった。すでに体を熱くしているのか。  腿から腰へは柔らかい肉をつけているようだ。彼女は二十八歳になっている。四年前からすると体つきからして違っていた。  ホテルに着く。チェックインする。エレベーターで上る。部屋はダブルだった。広いベッドが据《す》えられていた。体を中に入れてドアを閉めると、奈央が体を寄せて来てキスを求めた。  抱き寄せて唇を重ねる。唇も違ったように思えた。柔らかく煽情的《せんじようてき》だった。体を離すと、 「先にバス使ってきて」  と言った。  浴室に入って、バスタブに湯をためる。むかし奈央とよく来たのはこういうホテルではなかった。ラブホテルであり、彼女のアパートだった。  裸になってタブに入る。何かに酔っている気分だった。酒は酔うほどには呑んでいない。奈央に酔っているのだろう。湯に体を浸す。  男の妾になれるような女だったのか、と思う。妾だからと言って蔑《さげす》んでいるわけではない。妾というのも、才能と容姿が必要だろう。つまり男にとって魅力的でなければならないのだ。  湯にのぼせたようにドキドキする。これから彼女の体を抱くのだ。そう思っただけで息が上ってしまうようだ。体を洗って浴室を出ると、そこに彼女が浴衣を拡げて待っていた。背を向けると肩に掛けた。袖に腕を通す。そして腰紐を巻く。 「ビールでも呑んで待っててね」  と言った。俊行は冷蔵庫から缶ビールを出して来て、浴室を背にして椅子に坐った。何かポワーッと浮き上がってしまいそうな妙な気分だった。ビールを咽《のど》に流し込む。  赤座社長の手で、奈央はあんな魅力的な体になったのだろうか。女は男次第だという。俊行は、奈央をそれほど変えることはできなかったようだ。彼は息苦しくなって、ふーっと大きく息をついた。  奈央が浴室から出て来て、向かいの椅子に坐った。もちろん浴衣姿だった。彼女の浴衣姿はセクシーだった。浴衣の下はもちろん素肌だろう。四年前はこんなに息苦しくはなかった。同じ女なのにどうしてこんな気持になるのだろう。 「へんな気持ね。四年前はよくホテルに行ったのに」  そう言って照れたように笑った。彼女は立ってベッドに横になった。俊行が立ち上がると彼女は手をのばし、ベッドわきのスイッチを回した。明りを小さくしたのだ。  横になって奈央の体を抱き寄せる。しなやかな体だった。四年前の体はこんなにしなやかではなかったのだ。唇を合わせると、彼女はいきなり吸って来た。  抱き寄せて背中から尻のあたりを撫でまわす。布を透して肌の柔らかさと温かさを感じる。舌を絡《から》ませてくる。よく動く舌だった。彼の舌を吸った。  俊行は、浴衣の衿《えり》から手を入れて、乳房を探った。柔らかい乳房だった。手の中で融《と》けてしまいそうだ。こんな乳房ではなかった。もっと弾力のある乳房だった。男に揉《も》まれるとこんな乳房になるのか。乳房の柔らかさに比べて乳首はしこっていた。乳首を摘むと彼女は鼻で呻《うめ》いた。  足を絡めてくる。なめらかな足だった。たぐり寄せて、男の足を腿の間に挟みつけた。しきりに締めつけてくる。腰がせつながって揺れていた。唇を離すと、 「口でしてあげる」  と言った。手は彼の股間を探る。奇妙なことにペニスは勃起していなかったのだ。俊行はあわてた。かつてこんなことはなかったのだ。 「興奮しすぎているんだよ」 「うれしいわ」  と言った。萎《な》えたままのペニスを口に咥《くわ》えた。四年前もペニスを口にしたことがないわけではなかった。だが、口でしてくれよ、と言われてはじめてペニスを手にしたのだ。  それは女の口の中で膨《ふくら》んでいった。口からそれを離して、 「むかしと変らないのね」  と言った。男は変りようがないのだ。むかしと変らないのね、というほど覚えていたのだろうか。やっと、どうにかさまになったようだ。どうして女の体を前にして勃起しなかったのか。と思ってみる。  ドキドキしていた。たしかに興奮していた。それよりも社長の女だということが頭にあったからか、また、いい女になりすぎていたからなのか。男というのはデリケートである。     3 「あなた、どうしたの」  と妻の章子《あきこ》に言われて、ハッ、となった。奈央のことを考えていたのだ。奈央を抱いてから五日が経っていた。  会社でも、ぼんやりしている時間が多かったようだ。奈央の素肌を思い出すのだ。肌はなめらかで半透明だった。湯上りの肌ではあったが、しっとりとしていた。汗ばんだような肌だった。 「会社で何かあったの」 「まあね、悩みはいろいろあるさ」 「まずいことなの」 「そうでもないさ」  章子は三十三歳になる。子供が二人いる。六歳と四歳である。さっきまで家の中を走りまわっていた。どうやら、寝たらしい。 「あなた、ビールは」 「出してくれ」  風呂上りだった。  奈央にのめり込んでいきそうだな、と思う。四年前の彼女とは何となく別れられた。ショックもなかった。いまの奈央は違っていた。男によって磨《みが》かれた体だったのだ。以前とは全く違う女になっていた。まるでむかしの面影はなかった。乳房の感触だけにしてもだ。  女は変るとは聞いていた。だが、たった四年の間にこんなに変るとは思っていなかった。これはいかんな、と思う。奈央にのめり込んでしまったら、家庭はこわれてしまう。  章子がビールの栓を抜いた。それをコップに注ぐ。ビールを咽《のど》に流し込む。もちろん、奈央のことを章子には知られてはならないのだ。 「何かいいことあったの」 「いいこととか悪いこととか、そういうものではない。会社ではいろいろあるんだ。考え込むことだってある」 「あたしと子供の将来があるんですからね」 「だからどうだっていうのだ。おれはちゃんと働いている」 「あなたの働きで、あたしたちは生活できているんですよ」 「そういうプレッシャーをかけるな」 「ごめんなさい」  と言った。恋愛結婚だったが、ごくふつうの女だ。十人並みだ。いや十人並みよりも少しはいいかな、と思う。右向けと言えば、いつまでも右を向いている。そんな従順な女ではなかった。いまの女だ、エゴは多分にある。  奈央とのことを知ったら、彼女はどうするだろうな、と思う。おそらくただではすまなくなるだろう。章子には知られてはいけないのだ。それ以上に社長に知られてはいけない。知られては人生を失うことになってしまう。慎重にならないといけない。  ビール一本を空けた。 「疲れた、寝るぞ」  と言って椅子を立って寝室に行く。浮気とはさまざまなところに気を使うことになる。夜具に横になった。だが、つい奈央のことを考えてしまう。  四年前までは浮気していたことになる。だがそのときにはそれほど気を使わなかったように思う。奈央のことでぼんやり考え込むようなこともなかった。四年前の奈央は軽かったのだ。ただセックスを楽しむだけでよかった。  週に一回、奈央とは会っていた。会えば酒を呑んでホテルに行く、あるいは彼女のアパートに行って体を重ねる。彼女もまたこちらに深く入って来ようとはしなかった。 「用心しないとな」  と呟いて、隣りの章子の夜具を見た。まだ風呂に入っているようだ。呟きも聞かれてはならないのだ。  ことが終ったあと、奈央は言った。 「また会えるわね」 「もちろんさ、きみさえよければ」 「電話をすれば誰かに聞かれるわ、会社の人に知られると大変でしょう。おたくに電話するわけにはいかないし。ねえ、週に一度と決めておかない」 「おれはいいけど」 「毎週水曜日、六時からこのホテルにいるわ。あなたはフロントで部屋を聞いてくれるだけでいいの。あるいは電話で部屋を聞いてそのまま来てくれればいいわ」 「わかった、そうしよう」  たしかに、奈央だって俊行のことを赤座社長に知られたくないのだ。用心深くなるのは当り前だろう。新宿あたりを歩き回っていると誰に会うかわからないのだ。ホテルで会うのが一番安全である。  ねえ、と言って、妻が布団の中に入って来た。できればこのまま眠りたかった。だからといって拒むわけにはいかない。章子もいまが女盛りなのだ。めったに自分から求めることはないが、ときにはこうして布団の中に入ってくる。  体を押しつけてくる。擦り寄せてくる。パジャマのボタンを外して、手を入れる。そして乳房を掴んだ。二人目の子を生んでから急に感度がよくなった。女が一番倖せな時期なのだ。  いつものパターンだ。乳房を揉んでパジャマのパンツを脱がせる。その下にはパンティをはいていた。およそ、女のパジャマ姿というのは色気がない。それを女自身は知っているのか。また、パンティを脱いで布団に入って来たことはない。いつもはいている。パンティもパンツも亭主が脱がしてくれるものだと思い込んでいる。  結婚したときから同じだった。パンティを脱いで布団に入るのは淫《みだ》らだと思っているのか。はじめのうちは、パンティを足の指に引っかけて脱がしていた。もっともいまは手で脱がしてやる。  それほど好きものではなかったし、淫蕩《いんとう》でもなかった。これがごく普通の女房なのだろう。四年前に奈央と別れて他の女はいなかったが、だからと言って妻の体にのめり込むことはなかった。ごく普通にあつかったつもりだ。いろいろと教え込むと、あとが面倒なのだ。せいぜい週一のペースだった。  パンツとパンティを一緒に脱がせる。章子は目をつぶっていた。脱がしたところで、手をはざまに入れた。クレバスの中はまだ潤《うる》んではいなかった。  そこに指を遊ばせているうちに潤んでくる。そのころになると彼女は手を股間にのばしてくる。ペニスは勃起していた。反射神経である。妻のはざまに触れるときには、それを合図のようにペニスを握りに来るのだ。  もちろん、俊行は奈央のはざまを思い出していた。彼女はそこを指でいじられるのを好まなかった。おそらく、いつも赤座にいじりまわされているのだろう。クレバスはすぐに潤んだ。彼のペニスを口に咥えて潤んだのだ。体に触れなくても、それだけで潤んでくる。考えてみれば、口の中の粘膜も性感帯である。  奈央に出会ったのが、妙な気持だった。すでに彼女のことなんか忘れてしまっていた。だから、社員が、あれが麻生だと言ったときにはどこかで見たような女だな、と思っただけだった。奈央が目の前を歩き去っていればそれで済んだことだったのだ。  四年前の奈央だとあとで気付いたとしても俊行からは声をかけようとは考えなかったろう。過去に存在しただけの女だった。あの奈央が社長の妾になったのか、くらいで流れていってしまっていた。  あるいは、奈央もそこにいるのが俊行だとわかっていても、澄まして通りすぎるべきだったのかもしれない。奈央が俊行に声をかけたのも運だったのかもしれない。 「困ったことになるのかもしれない」  胸の中で呟いた。俊行は家庭をこわすつもりも、章子を泣かせるつもりもなかった。だが社長の女を盗んだことになるのだろう。盗んで味わってしまった。むかしの女だとは思わなかった。むかしはおれの女だったのだと言う自信もなかった。  あのころは軽い女だった。いまは高級な女になってしまっている。高級な女だけのたのしみを俊行に味わわせてくれたのだ。  だが、奈央と体を重ねてしまえば、社長がこわい、章子がこわいのだ。社長も章子もどうでもいいというほど、奈央にのめり込んではいけないのだ。男である前に社会人であり家庭人だということになる。  奈央の体にのめり込んでいけるほど若くもなかった。 「これ、他の女の人に使ってはいやよ」  とペニスを握って言った。ほんのわずかだが胸が痛んだ。それは妻としての権利だろう。ペニスは妻の所有物である。奈央は社長の所有物である。このペニスを奈央のワギナに埋めるということは、二人の所有権を侵害することでもあるのだ。  むかしはこんなことは考えたこともなかった。軽い気持で奈央と遊んでいた。章子に対する罪悪感などなかった。もっともそのころ奈央は誰の所有物でもなかったのだ。  こんなことを考えるということは、それだけ齢をとったということか。齢をとったと言ってもまだ三十六歳である。あるいは何もかも忘れて、他人の権利など無視して奈央と遊ぶべきかもしれないのだ。まだ無責任になれる年齢のはずである。     4  東郷警備保障KKのビルは渋谷にある。その会社の社員寮は恵比寿にある。1DKだがマンションになっている。このマンションのビルは東郷警備のものだと聞いた。  鏑木一行《かぶらぎいつこう》は、マンションの一室にいた。以前は私立探偵のような仕事をしてアパートに住んでいた。  いま私立探偵と言ったって、まともな調査依頼があるわけはない。私立探偵の信用はガタ落ちしている。仕事のない私立探偵が調査を依頼されると、その依頼者の秘密を掴んで相手を強請《ゆす》るのだ。貧《ひん》すれば鈍《どん》するである。私立探偵は自分で自分の首を絞める結果になってしまった。  信用がなくなれば、私立探偵に仕事などくるわけはないのだ。だからあとは便利屋になってしまう。犬の散歩であったり、引越しの手伝いであったり、家の周りの掃除であったり、まともな仕事はない。まだ、そんな仕事があるだけでもよかった。  一行は大学を卒業した。そして司法試験をめざしたのだ。弁護士になるつもりだった。  だが司法試験に合格できなかった。司法浪人だった。  彼はいま三十二になる。さすがに司法試験は諦めた。諦めたところでまともな職はなかった。一時は弁護士事務所の助っ人をしていたが、けんめいに働いただけでは弁護士になれはしないのだ。弁護士と助手の間には天と地の開きがある。弁護士になれないとすれば弁護士のそばにはいたくなかったのだ。それでフリーになった。  フリーになって食っていけるほど世の中は甘くなかった。食うや食わずで探偵をやっていた。ただ、メリットは体力があり体術の心得があることだった。若い者やチンピラなど四、五人は一度に叩きのめすことができる。  その落ちこぼれを拾ってくれたのが東郷警備だった。三ヵ月間の研修期間も無事に終えて、正式に社員になったのだ。  サラリーマンではない、給料をもらっている点ではサラリーマンだが、行動は自由だった。もっともポケットベルで呼び出されるわけだが、ベルが鳴るまではどこにいてもいい。何をしていてもいい。九時に会社に出なければならない、というのではなかったのだ。  ちゃんと給料は入ってくる。仕事を探す苦労もない。住まいもあるのだ。これでどうにか人間らしくなれた。  だが、思いはたいして変らない。弁護士になるはずだったのが、警備会社の調査員になっただけなのだ。落ちこぼれであることには変りがないのだ。  一行は、ベッドに寝転んでいた。この一週間ほど仕事はなかったのだ。仕事がないというのもいやなものだ。給料だって余るほどあるわけではない。楽になったと言っても遊べる金があるわけではないのだ。外に出れば金を使うことになる。飯を食わなければならないし、酒も呑みたくなるのだ。  ベッドに寝転んで推理小説を読んでいる。幸い近くに貸本屋があった。二、三冊ずつ借りて来て読む。これでけっこう時間はつぶれるのだ。  電話のベルが鳴った。受話器を把《と》る。 「鏑木くんか、仕事ができた」  調査部長の藤崎である。 「これから会社に行きましょうか」 「いや、直接むこうに行ってくれ、素行調査らしい。依頼者は、いいかメモしてくれ」 「しています」 「神田神保町の東景ハウス、建設会社だ。社長の赤座という人に会ってくれ、会社に行けばわかるようになっている」  部長は電話番号を言った。探していけということだ。電話を切って外出の支度をする。この会社に入って服装はよくなった。頭髪も刈った。会社相手の仕事だから、みなりだけはきちんとしておかなければならないのだ。  マンションを出て駅に向かう。人間は少し不自由なほうがいい。どこか縛《しば》られていないと心もとないのだ。どこかにふらっと飛んでいってしまいそうな気になることもある。給料をもらっているのだから、ポケットベルを持たされる。つまりポケットベルに縛られているわけだ。  恵比寿駅から電車に乗って、水道橋駅で降りた。勘はいいほうだ。歩いていると東景ビルにぶち当った。何丁目何番地とわかっていれば、人に聞かなくてもたどり着ける。  ビルに入ると、そこに受付があった。若い女の子が二人坐っていた。二人ともいい女だ。  いつかは誘ってやろうか、と思う。 「社長にお目にかかりたい」  と名刺を出した。受付の女の子は電話をかける。 「どうぞ、社長室は五階でございます」 「きれいな、手ですね」  と女の子に言った。女の子は手を引っ込めた。自分のペニスを握らせたい指をしていた。女の子は妙な顔で一行を見た。  これでコナを掛けたことになる。女の子は一行のことを記憶にとどめたはずである。次に会ったときには誘いやすい。  エレベーターで五階に上った。エレベーターを出て、左右を見た。社長室とプレートが下っているのが見えた。そのドアを叩く。ドアが開いた。そこにプロポーションのいい女が立っていた。秘書なのだろう。 「東郷警備ですが」 「どうぞ、お入り下さい」  と言う。たしかに受付にいた女の子よりもランクは上だ。秘書は見飽きのこない美女でなければならないようだ。  部屋に入る。大きな机を前に、頭のピカピカ光った老人が坐っていた。その老人が立って来て、どうぞとソファを示した。  こういうところのソファはびっくりするほど柔らかいのだ。用心して坐らないと、ひっくり返ってしまう。  先に老人が坐るのを待って、一行は腰を降ろした。びっくりするほどには柔らかくなかった。一行は名刺を出した。  老人は、赤座です、と言っただけで名刺は出さなかった。名刺はやたら出すものではない、という考え方なのだろう。  六十五、六だろうか、あとで七十二歳と聞いてびっくりした。頭はテカテカと光っているが、いかにも精力的で若い。 「さっそくだが、帖佐奈央という女の素行を調べてくれたまえ。住所はあとで教える。聞きにくいだろうから言っておく。わしの女だ」 「ありがとうございます」 「奈央は二十八歳、いい女だ。わしが磨いた女だ」 「なるほど」 「奈央に男ができたようだ。その男をつき止めて欲しい」 「期間は?」 「みつかるまでだ」 「わかりました」  女秘書がテーブルのそばにやって来て、一行にメモを渡した。そこには、奈央という女の住所と地図が書いてあった。 「気付かれないようにしてくれ。わしが一番気に入っている女だ」  ということは、他にもいるということになる。赤座は用はすんだというようにソファを立ち上った。一行も、立ち上って、それでは、と一礼してドアに向った。  エレベーターで一階に降りると、さっきの手のきれいな女に、どうも、と手を上げた。ヘンな人というような目で一行を見た。  水道橋から電車に乗って新宿で降りた。新宿からは小田急線電車である。鶴川駅から歩けばいい。地図はわりにていねいに書いてあった。まず、調査する女を見ておきたかった。  鶴川駅で降りて歩く。駅から近いというほどの距離ではなかった。五、六分も歩けばかなりの距離だ。石垣のある家だった。表札には帖佐とあった。  一人で住むには広すぎるくらいの家である。もっとも一人で住んでいるのかどうかは知らない。社長がこの家を訪れるのだろう。一行は、家の中からは見えない位置に立った。ただ立っているにしても、目立たないように立っていなければならない。  夜になって八時には引き上げた。男と会うためだったら、八時以後にだって外出するだろう。だが、第一日目である。無理はしないことにした。  翌日は、午前十時に現場に来た。あたりの地形は昨日のうちに見ておいた。一行は双眼鏡を持って来ていた。女の家の向い一○○メートルくらいのところに斜面があり、青い雑草が見えていた。その斜面に向った。そこからは家は小さく見える。  双眼鏡を目に当てると家の中まで見える。だが用心しなければならない。レンズは反射する。わりに遠くてもそれとわかるのだ。  素行調査といっても、それほど楽な仕事ではない。いつ外出するかわからない女をじっと待っているのだ。忍耐が必要だった。  今日は外出する、そのあとを尾行してくれというのだったら、わりに簡単なのだが。いつ外出するのかはわからない。このようにして四、五日も待つのはつらいことだ。  一行は、帖佐奈央という女の顔を見ておきたかった。赤座社長が執心しているというのはどんな女だろうという興味があった。  赤座は七十二歳、まだ女には興味があるのだろう。世間の常識ではすでに枯れていなければならない年だ。もっとも最近では色香を求める老人が多い。つまり好色ジジイだ。  もっとも赤座のように金があっての好色ならばいいのだ。金で女はいくらでも手に入る。金のない老人が好色なのはみじめだ。金以外ではおそらく女は手に入らない。女が手に入らなくても欲望だけはある。  人影が動いた。だが目的の女ではない。お手伝いだろう。中年女である。四十代か五十代か、お手伝い兼お目付役なのだろう。お目付役がいるのなら、女の行動は知れるはずである。  もう一つの影が動いた。姿のいい女だった。プロポーションがよくて全身のバランスがとれている。身長もありそうだ。やはり美女というのは身長がなければならない。一六○センチは必要だろう。いかに容貌がよくても、背が低くくては美人の条件からは外れる。  のびやかな体をしていてその動きにも女らしさがあった。双眼鏡も顔がアップにはならない。女の動きをしばらく眺めていた。体つきだけ見ても美人だった。顔だけが美人の条件ではないのだ。  だが、こうして張り込んでいるだけでは能がない。一行は翌日、電話局の工事員に化けた。警備会社では電話局の車を用意してくれた。会社ではこのような手をよく使うらしくライトバンに電話局のステッカーを貼った車が用意されていた。  運転は、会社の別の人がしてくれた。渋谷の本社から車は出る。麻生まではそれほどの距離ではない。車を帖佐の家の前に横づけにする。  一行はつなぎの作業服を着ていた。家に入る。やはり五十年配とみえるお手伝いが出て来た。 「すみません、電話の調子を見ているのですが、拝見させて下さい」 「どうぞ」  と女は疑いもせずに家の中に入れた。そして電話のあるところに案内する。盗聴器をセットするだけである。小さなワイヤレスマイクを受話器にセットした。 「どうしたの」  と帖佐奈央が姿を見せた。一行は帽子で顔を隠した。顔を見られては尾行がやりにくくなるのだ。 「電話の点検だそうです」  とお手伝いがいう。 「終りました。異常はないようです」  と頭を下げ、一行は引き上げた。     5  一行は一度本社にもどり、着換え、小田急電車で現場に来た。双眼鏡で覗く。奈央の姿がなかった。シマッタ、と思った。出かけたのだ。  週に一回男と会う。奈央は今日出かけた。すると次の出掛ける日まで待たなければならない。一週間をロスしたことになる。こういうところが素行調査のむつかしいところだ。  一行も以前に何度か素行調査をやったことがある。収入のわりには面倒な仕事なのだ。諦めては仕事にならない。忍耐である。無駄の多い仕事だ。いまは給料をもらっている。その点気楽だった。 「ちくしょう」  と呟いた。奈央がいないのでは張り込んでいたって仕方がない。もっとも電話がある。電話のベルが鳴れば、何か情報が得られるかもしれない。  電話機にマイクロ盗聴器を仕掛けているとき奈央が姿を見せた。一行もちらりと顔を見ただけである。  肌の白い女だった。首筋に肌の白さが見えていた。透明感のある白さだった。それよりも目つきが異常だった。ふつうの女の目つきではない。三白眼である。それが妙に色っぽいのだ。  あの目にみつめられると男はトロンとなるのに違いない。目に異常のある女はワギナにも異常があるという。あるいは体そのものが他の女たちとは違っているのかもしれない。  ワギナに異常といっても、一行には思いつかない。タコとかキンチャクとか俗にいうその機能が特殊なのだろうか。そのために赤座は奈央を寵愛《ちようあい》しているのか、特殊な機能と言っても、一行にはわからない。それほど多くの女を知っているわけではなかった。  今日は、この辺で切り上げるか。といま一度念のためにと双眼鏡を覗いた。影が動いた。奈央はいたのだ。外出したわけではなかった。ホッとなり坐り直した。  その日は、外出する様子もなかった。また電話のベルも鳴らなかった。だが、一週間を無駄にしなくてすんだ。  二号というのは仕事らしい仕事はない。ただ旦那のお相手をするだけなのだ。あとはぶらぶら遊んでいる。家の中のことはお手伝いがやる。これでは時間がもたないのではないのか、と思う。  その日も午後八時ころ引き上げた。そして朝十時には指定の場所に坐り込む。もっとも同じ場所ではない。少しずつ場所を変える。十時少しすぎたころ、電話のベルが鳴った。聴くのは小型ラジオである。双眼鏡を覗く。電話機の位置が見えていた。呼び出し音が三回鳴って、お手伝いが受話器を把《と》った。 「はい、帖佐でございます」 「奈央さん、いる?」  と男の声である。やっと男が姿を見せた。 「どなたさまでございましょうか」 「サエキと言えばわかります」 「サエキさんですね。少々お待ち下さい」  とお手伝いは受話器を置いて姿を消す。しばらくして、奈央が姿を見せた。 「はい、奈央よ」 「今日、会ってくれないかな」 「さあ」 「さあ、って、このごろ冷めたくなったんじゃないのか。会いたいんだよ、きみを抱きたいんだよ」 「そんな、露骨に言わないでよ」 「誰も聞いてやしないよ」 「あたしが聞いているわ」  電話をしながら、奈央の体がかすかに揺れていた。そのさまが妙にセクシーだ。先天的にこのような媚態《びたい》を持っている女らしい。 「ねえ、会ってくれよ、きみが欲しいんだ」 「それだけなの」 「好きだよ、愛しているよ、きみに会わないとどうしようもないんだ」 「わかったわ」 「そうか、よかった。きみに断られたらどうしようか、と思っていたんだ」 「じゃ、午後二時、いつものところで」 「待っているよ」  と言って電話が切れた。  奈央に男がいた。妙に甘ったれていた。年下の男だろう。赤座に抱かれているだけでは体がもたない。他に男を求めて当然だろう。  奈央に男がいた。簡単にわかったような気がした。あとは奈央のあとを尾行して、男と会ったところをカメラに収めればいい。そして男の身元を確かめる。仕事はそれで終りだった。  サエキは佐伯だろうと思った。手間のかからない男だ。佐伯は奈央と一緒にホテルに行くだろう。そのホテルの前で待っていればいい。そして出て来た佐伯を尾行すればいいのだ。簡単な仕事だった。  彼と待ち合わせるのは午後二時だ。すると外出するのは一時ころか。一行はそこに寝転んだ。幸い天気がよかった。雨でも降っていればたまらないところだった。  体を起した。奈央の家から黒い影が出るところだった。あわてて双眼鏡を手にした。奈央だった。早すぎる。一行はあわてて立ち上り、双眼鏡をショルダーバッグに入れた。そして鶴川駅に急ぐ。この道は駅の近くで合流するのだ。  合流したところでむこうの道を見ると、奈央が歩いて来るところだった。先に駅に行って新宿までのキップを買う。新宿だと見当をつけたのだ。  奈央が来てキップを求め改札口を入る。一行はその後を尾《つ》ける。尾行を気にしていない人の尾行は簡単なものだ。すぐ後ろを歩いても気付かれない。  小田急線電車に乗り込む。その後から乗った。新宿行きの各駅停車である。新百合ケ丘で電車を降り急行を待つ。急行に乗り込む。昼間だというのにわりにこんでいた。  奈央はドアのそばに立っている。一行は少し離れていた。男たちの視線が奈央の体を舐《な》めるように見る。彼女は見られることには馴れているようだ。体の線がくっきり出るようなスーツを着ていた。プロポーションがよくてしなやかそうな体つきだ。乗客たちの視線を集めても当然だろう。  新宿駅に着いた。待ち合わせの時刻にはまだ二時間ほどある。どうするつもりなのか。地下道を通って駅の東口に出た。そしてぶらぶらと歌舞伎町を歩く。一行はそのあとにピタリと着いた。  いつもの所と言った。いつものところがどこなのかわからない。もちろん彼女は尾行には気付いていない。男と会うのに尾行は気にしていなかった。  三十分ほど歩いて歌舞伎町の喫茶店に入った。ここが待ち合わせ場所だったのか。一行は外で待った。あとから店に入っていくと顔を合わせることになる。待つより仕方がなかった。待ち合わせでなくとも、入口から客が入ってくると、たいていの客は入口を見る。本能のようにだ。  四十分ほどして奈央は出て来た。一人である。ここは待ち合わせ場所ではなかったようだ。彼女はぶらぶら歩いて靖国通りへ出る。その通りを渡った。そして駅前通りに出る。通りをぶらぶら歩く。  そして紀伊国屋書店の前あたりで、タクシーに手をあげた。一行はあわてた。次のタクシーを探した。だが運よくタクシーが来るわけはないのだ。奈央を乗せたタクシーは走り出す。一行は、タクシー会社と車のナンバーをメモした。そして、電話ボックスを探す。すぐそばに電話ボックスがあったが、ふさがっていた。  電話は空かなかった。いらいらしながら待った。やっと順番が回って来た。一行は会社に電話を入れ、タクシー会社の名前と車のナンバーを告げた。紀伊国屋の前であることも加えた。  紀伊国屋前から乗せた女客をどこへ運んだか、調査部のほうでタクシー会社に問合わせてくれる。このようなシステムでも取らないと都会での尾行は不可能になる。  ポケットベルがなった。もう一度会社に電話する。タクシーは奈央を東京グランドホテルに運んだと言った。いきなりホテルで待ち合わせるとは思っていなかった。ホテルのロビーで待ち合わせたのか。  一行はタクシーを止めると、グランドホテルと言った。一階にはたいていロビーと喫茶部がある。まだそこでお喋りでもしているのではないか、と思う。そうであって欲しいと思う。すでにストレートに部屋に入ったのか。  ホテルに着いた。用心深くロビーと喫茶室を見まわした。奈央の姿はなかった。部屋に入ってしまったのか。フロントに行き、帖佐奈央が部屋をとっているのかどうかを聞いた。奈央の名前ではとっていなかった。 「佐伯ではどうですか」 「佐伯なんと申されますか」 「そこまではわからない」  宿泊者カードを見ていた。 「佐伯さまもお泊りではございません」  すると、他の名前なのか。もちろん、名前は変えているのだろう。情事なのだから。だが方法はある。部屋に入ったのなら、出て来るまで待っていればいいのだ。  三章 連 鎖     1  ホテルのツインの部屋である。奈央は先に浴室に入った。タブに湯をためたが、風呂とは違う。だから湯は肩までは来ないのだ。乳房がやっと湯に沈むくらいである。肩まで浸そうとすると、両足を折り畳まなければならない。タブというのは何となく落ちつかない。風呂はただ体を洗うだけの場所ではないのだ。ゆっくり湯に浸るところであるはずだった。  まだホテルのタブよりもラブホテルの風呂のほうがよかった。手足はのばせなくても、肩まで湯につかることができるのだ。  斉木淳《さいきじゆん》とホテルに来た。誘われればいやとは言えなかった。淳とは一年ほどになる。誘ったのは奈央のほうだった。新宿のバアで知り合ったのだ。  淳は奈央よりも二つ若かった。いまでは二十六歳になっている。バアのカウンターで淳は隣りに坐った。その淳が声をかけて来た。彼女には五つも六つも若く見えた。まだ子供だった。まるで高校生のような顔をしていた。  育ちも悪くなさそうだし、いまの若者の荒っぽさもない。お行儀がよくて純情そうに見えた。奈央も遊んであげるというつもりだった。  男といえば赤座一人である。赤座は奈央の体をくたくたにするまで揉みしだく。彼の指技や舌技によって、彼女は何度もオルガスムに達する。  指技舌技によって奈央は女になった。歓喜する度に体がよくなっていく。肌が半透明になったのは赤座のせいである。つまり奈央は赤座によって磨き上げられたのだ。  表裏四十八手という。おそらくそのポーズはすべて取らされたように思う。その点、赤座は女を多く経験しているせいか、よく知っていた。奈央にさまざまなポーズを取らせてよろこんだ。  赤座に飼われている女である。どうこね回されても文句は言えないのだ。もちろん、そうされることがどうしてもいやだったら逃げ出していただろう。  体をいじり回されることが、奈央はそれほどにはいやではなかった。もちろん、パトロンを持つには、そのパトロンが嫌いでは成立しないのだ。赤座の女になったのは赤座が生理的にいやだということではなかったからだ。  嫌いではないということだけで二号になる資格はあった。テレビドラマなどでは、いやでいやで仕方がなくても金のためなら仕方がないというパターンで描かれる。これははじめから嘘だと思っていた。嫌いではいくら二号でもなれはしないのだ。  金のためなら仕方がないと思う反面、生理的に嫌いというのではない。だから赤座の二号になれたのだ。金で女を自由にする男は、ドラマではたいてい悪党である。悪党だからやっつけなければならない。そこに純情な正義感の強い男が出て来て悪党をやっつける。若い男は正義であり、善なのだ。  だが、現実は逆になる。若い男は悪党である。正義でも善でもない。金もないのに人の持ち物を奪う。そこに純情とか愛とか色づけして。金のある老人はたいてい悪役を演じさせられるのだ。つまり、金のあるのは悪であり金のないのが善ということになる。それで視聴者は納得するのだ。このパターンは百年むかしから、あるいは五百年前から変っていないのだろう。  奈央は金のためでもあったが、赤座をそれほど嫌いではなかった。金があるということは善なのだ。だから赤座は奈央を自由にする資格があるのだ。  苦労して一代で会社を作りあげた。人並みの苦労ではなかったはずだ。何の苦労もせずに生きて来た人たちに赤座をののしる資格はないのだ。  もちろん、奈央だってはじめから男の二号になるつもりはなかった。母が病気で働けなくなり、入院した。OLとしての給料だけではどうにもならない。それで決心して二号になった。  はじめは赤座に抱かれるときは、目を閉じ体を堅くしていた。だが馴れてくるに従って彼女は赤座に感謝した。赤座は彼女にとって恩人でもあったのだ。  奈央は赤座のやり方がいやになったのではない。斉木《さいき》淳に会って、赤座とは対照的な淳に抱かれてみたいと思ったのだ。それでホテルに誘った。奈央が淳に抱かれたのは、赤座への反発だった。赤座への謀反《むほん》でもあった。  だが、淳はいかにも味が薄かった。アッという間に終ってしまうのだ。もちろん、歓喜を得るために淳を誘ったのではなかった。  奈央は、赤座も必要だが淳も必要だったのだ。淳がいてくれてバランスが保てると思った。だから一年間も続いて来たのだ。  赤座に愛撫される代りに淳を愛撫したのだ。それだけ淳は彼女に甘えかかって来た。  淳が裸になって入って来た。股間の一物は怒張していた。 「駄目よ、いやよ、出ていって」  と叫んだ。怒ったような顔をしていた。以前はこのタブの中でも、抱き合いもつれ合った。怒張しているペニスを口にもした。だがいまはそういう気持にはなれないのだ。  淳はションボリして出ていく。 「ごめんなさいね。そんな気分じゃないのよ。あとでベッドでね」  と詫びるように言った。自分を勝手な女だと思う。たしかに以前は淳を必要としていた。  だが、赤座と淳の間に男が一人入って来た。音代《おとしろ》俊行である。奈央が二号になってからは二番目の男である。四年前までは恋人だった男である。俊行の前から黙って姿を消した。別れの言葉は言いたくなかった。  俊行はただのサラリーマンである。加えて妻がいた。妻を追い出して俊行と結婚したいと思ったわけではない。そんな強いものはなかった。  ただ、一人でいるのは淋しいから、ときどき会っては体を重ねていた。体を重ねるために会っていたのかもしれない。母が病気になり働けなくなっても、それは俊行とは全く無関係のことだった。相談もしなかった。相談してもどうにもならないことはわかっていたのだ。俊行だってそんなにお金に余裕があるわけではなかったのだ。  その俊行と四年ぶりに会った。懐しいとか恋しいとか思ったわけではないのだ。同じ東京にいるんだから、どこかでは会っていたのかもしれない。  奈央は考えた。四年前までは俊行を愛していたのかしら、と思った。赤座とも淳とも愛情なんてなかった。体は重ねていても、そこに情はなかった。俊行と会って奈央の体の中にある情が疼《うず》いたのだ。あるいは彼女は情に飢えていたのかもしれない。情を刺激されてにじみ出て来たものがあった。  だから、俊行を誘ったのだ。四年前までだって恋とか愛とかいうものはなかった。だが俊行に抱かれていると、妙に自分が和《なご》んでいることを知ったのだ。  俊行を誘って抱かれた。すると四年前の和みが体の中に染み込んで来た。俊行はちっとも変っていなかった。四年前と同じだった。愛撫もそして体を重ねてからの動きも。  四年間で変ったのは奈央だった。俊行に抱かれてみて、自分の変りようを知った。四年前にもどったような気がした。その思いが体の中に染み込んで来た。それが妙にたまらなかった。  また、俊行への思いも何だか変っていくようだ。こうなると赤座と淳との間に保たれていたバランスが崩れていく。崩れたらどうなるのかはわからない。  まず、淳とは別れることになるだろうとはわかっている。だが、いきなりハイサヨナラというわけにはいかないのだ。  体を洗ってタブから出る。そして素肌に浴衣を着た。そして脱いだものをかかえて浴室を出る。  淳はふくれっ面《つら》で、椅子に坐って煙草を吸っていた。奈央は背中から彼に抱きつき、衿《えり》の間から手を入れて男の胸を撫でた。細い体つきだった。淳は銀行員である。外回りだからわりに時間は自由になるのだ。 「淳、機嫌《きげん》を直してよ。女なんて気分屋なのよ」  けれど、今まではこういうことはなかったのだ。淳が甘えかかればそれをみんな受けていたのだ。彼女は淳の前に回った。そして浴衣の前をめくった。ペニスは萎《な》えていた。それを指で摘んでやる。とたんにペニスは膨《ふく》れ上って来た。指で摘んで上下させる。  奈央はその尖端に唇を押しつけた。そして尖端に舌を這わせて湿りを与える。なめらかになって来たところで、ペニスを呑み込んだ。淳がウンと声をあげた。     2  鏑木一行はロビーに坐っていた。正面にエレベーターがある。彼は新聞を読んでいた。読んでいるのではない。新聞の上部から目だけをときどき出す。  帖佐奈央はこのホテルのどこかの部屋に男といる。それは一行の勘みたいなものである。男に抱かれている。彼女を抱いているのは、どんな男なのか。羨しい男である。一行などには手の出せない女である。高級な女だった。双眸《そうぼう》が異常だった。ワギナにはどんな異常があるのか。  一行は調査能力はとにかく、自分では下賎な男だと思っている。女とみれば体を重ねることしか考えない。手を見れば、あの手に自分のペニスを握らせてみたいと思うし、女の唇を見れば、あの口にペニスを咥《くわ》えさせてみたいと思う。それは男の本能だろう。下賎ということではない。  男たちはそう思いながら、顔にはおくびにも出さない。電車の中で奈央を見ていた男たちは、十人中八人までは、彼女を押し倒して重なってみたいと思っていたはずだ。もちろん願望だけでむなしいだけだが。  エレベーターのドアが開いた。そこに奈央の姿があった。その奈央の後ろに若い男がいた。あの男が奈央の相手だったのか、とむかっとする。  奈央はフロントに行き、チェックアウトする。その間、男は黙って立っていた。良家の坊ちゃんみたいな男だ。背が高くて背広がよく似合っている。  フロントからもどってくる。男が奈央に歩み寄る。二言三言、何か言い争いをしていた。奈央は男と別れて小走りに行く。そしてタクシーに乗った。  男はぼんやりと立っていた。時計を見た。まだ五時前である。しばらく考えていた男はホテル内の公衆電話に歩み寄った。受話器を把ってテレホンカードを押し込む。そしてボタンを押した。二言三言喋って受話器を置く。  電話から少し離れて何かを考えていた。そして再び電話機に歩み寄りボタンをプッシュする。  一行はその隣りの電話に取りついた。受話器を把り、電話しているふりをする。そして耳をそばだてる。 「西丸三香子《にしまるみかこ》さん、お願いします」  と言った。相手が出た。 「おれだ、サイキだ。どう、今日会おうか。そう、じゃ、いつものサテンで六時だ」  と言って電話を切った。男と女はいつものところでと言う。いつものところでと言えばわかるのだ。  サエキは、ホテルを出た。そして地下鉄駅に向って歩いていく。奈央と別れたばかりで別の女に会おうとしている。奈央を抱いて不満だったのか。言葉の使い方からして恋人のようだった。  サエキの後を歩きながら、一行は、ちきしょう、と呟いた。一日のうちに二人の女を抱こうというのは若さだろう。女が二人もいるなんて。いま一行は女の一人もいないのだ。  彼は、サエキではなくサイキと言った。サエキならば佐伯だが、サイキならば違う。斉木なのか。もちろん、この男のことは確かめてみなければならないのだ。  報告書を書くのに、斉木という男と会っていたではさまにならない。斉木が何者かわかってはじめて報告書になるのだ。  斉木が西丸三香子と会ってホテルに行くことになれば、また張り込まなければならないのだ。  斉木は赤坂見附から、新宿行きの地下鉄に乗った。そして新宿駅で降りる。斉木の体にはまだ奈央の匂いがついているのかもしれないのだ。奈央を抱いたあとシャワーでも浴びてきたのか。  たいていは抱き合う前に、シャワーか風呂を浴びる。だが終ったあとはそのまま下着をつけ、帰ってしまうものだ。  新宿を東口へ降りた。六時までにはまだ時間がある。斉木は、奈央と同じようにぶらぶらと歩く。そして紀伊国屋書店に入る。そして書店の中を歩く。何かの本を探しているというのではなかった。時間があるから、ちょっと眺めているだけというのだろう。書店は時間つぶしにはちょうどよかった。  彼が喫茶店『滝沢』に入ったのは五時半だった。この店は地下にあるが、店内はわりに広い。一行は斉木のすぐ後から入った。店内の席はほぼ埋まっている。空席があって斉木はそこに坐った。一行は席を捜すふりをしてしばらく待った。斉木の背後の席が空いた。一行はそこに坐った。斉木の背中を見るような位置に。西丸三香子は斉木と向い合って坐ることになる。すると彼女の顔も見ることができるのだ。  珈琲を頼んだ。運ばれて来た珈琲をのむ。  西丸三香子は、六時に十分も早く来た。彼女は斉木しか見ていなかった。この女は斉木に惚れているな、と思った。斉木と同じ年齢か一つか二つ下か。斉木にふさわしい女だった。背丈も一六○センチくらいはあった。わりに細身で、品のいい女である。斉木にはこの女のほうがお似合いだ。  彼女は斉木のことをジュンさんと言った。斉木ジュンか、いい名前だ。どういう字を書くのだろう。 「早かったじゃないか」 「会社なんてどうでもいいのよ」 「どうでもよくはないだろう。給料もらっているんだから」 「給料だけの仕事はしているわ」  斉木は、行こうか、と言って先に立った。そして店を出る。二人は歌舞伎町のほうへ歩いていく。二人の後ろ姿を見て歩く。もちろんセクシーという点では奈央には遠く及ばない。だが西丸三香子はのびやかな体をしていた。腰から尻の形もいいし、胸の膨みも足りていた。  こんな恋人を持っていながら奈央にこだわる。その気持もわからないではなかった。ベッドでの快感度はたしかにかなり違うだろう。もっとも奈央にこだわるのは、肉体だけではないのだろうが。  二人は、区役所通りにある大衆酒場に入った。一行は二人のすぐ後からついて入る。広い店の中は、ほぼ客でいっぱいだった。一行はその背後の席についた。二人はハイサワーだった。一行もハイサワーにした。  サラリーマンとOL、それに若い者たちで席のほとんどはふさがっている。店の中は騒々しい。だから話すにも叫ぶような声になる。 「どうして、あの女にこだわるの」  と三香子が言う。 「それほどあの女がいいの。あたしでは駄目なの」 「そんなことはないさ。もうしばらく待ってくれよ。近いうちに彼女とは別れるよ」  三香子は、どうやら、斉木と奈央の関係を知っているらしい。 「たしかにベッドテクニックは凄いかもしれないわ。二号さんですものね。それだけが商売でしょう。上手にもなるわよ。だけど、それだけじゃないの。あの女には他には何もないのよ」 「それだけじゃないさ」 「他にあの女に何があるというの」 「さあ、わからないけど」  斉木が奈央に魅かれているのは、ただベッドだけではない。そこにはそれ以外に何かがある。だが、斉木にはその何かがわからないようだ。 「あたしはいやよ。淳をあんな女に取られるなんて」 「だからさ、もうしばらく待ってくれよ」 「もうしばらくって、いつまでなの、三ヵ月? 半年? 一年? 淳のその言葉何度も聞いたわ。何度、もうしばらくを待ったかしら」 「もうしばらくだ。彼女には別に男ができたらしいんだ。妙に冷めたくなってきている。今日だって」 「今日、彼女と会ったの、不潔!」 「不潔か、だったら帰っていいよ」 「いやよ、そんなの」  なかなか気の強い女らしい。三香子は斉木に惚れ込んでいるらしい。だから、斉木に奈央がいても別れられないのだ。  あるいは、斉木と奈央の関係より、斉木と三香子のほうが長いようだ。斉木と三香子の間に奈央が割り込んで来たのか。 「あの女のどこがいいの」 「さあ、どこがいいのかな、ぼくにもよくわからないんだ」 「あの女はパトロンのオモチャになっているのよ。いやな男にセックスを切り売りしているんだわ。金のために自分の意志を裏切っているのよ。そういう生き方をしている女よ」 「それはそうだけど」 「そんな女を穢《きたな》いとは思わないの」 「穢いと思ったら、はじめからつき合わないさ」 「じゃ、穢くないというの」 「そういう問題じゃないと思うけどな」 「淳はあの女に欺《だま》されているのよ。ほんのお遊びなのよ」 「もちろん、遊びさ、彼女と一緒になれるなんて思ってやしないよ。だけど、遊びだって夢中になることはあるだろう」 「淳は、あの女に夢中なの」 「だから、近いうちに彼女とは決着をつけるよ」 「簡単に決着はつかないと思うわ」 「こんなぼくなんか放り出してしまえばいいじゃないか」 「それができれば、こんなに苦しまないわ。あたし、淳を愛しているのよ」 「この問題、しばらく、今夜だけでいい、休戦にしないか」 「そうね、いくら言い争ってもしようがないわね」  三香子という女は、頭の回転はいいらしい。二人は席を立った。そして店を出る。もちろん一行もあとに続く。  酒場を出た二人は、歌舞伎町の奥に入っていく。三香子は斉木の腕に腕を絡《から》めていた。若い恋人同士だ。三香子はこれから斉木に抱かれることになる。  新大久保に入ると、ラブホテルの中に姿を消した。泊りはないだろう、とすると一行はここでも二時間ほどを待たなければならないのだ。斉木は奈央とは中途半端だったのか、それで三香子を呼び出したのか。     3  一行は翌日、会社に出た。そして自分の机でレポートを書いた。以前は私立探偵もやっていた。報告書の書き方くらいはわかっている。  奈央の行動を書き、斉木淳と会ったこと、そしてホテルにいた時間、そのあと斉木は三香子を呼び出して、ホテルに入ったことを書いた。  そのあと、一行は斉木淳の家まで行き、三住銀行の行員であることをつきとめた。その後に、一行は自分の感想を書いた。調査報告書を書き上げれば、彼の仕事は終りである。一件終了ということになる。報告書を持って藤崎調査部長の部屋に行った。  藤崎部長はレポートを読んでいた。 「さすがだ。鏑木くんの仕事は早い。ぼくが思っていた通りだ。これを赤座社長に届けてくれ。社長から何か質問があるかもしれんからな」  と言って藤崎は電話を入れた。そして、 「赤座社長は待っているそうだ」  と言った。  一行は会社を出た。そして神田神保町に向う。受付嬢はこの間の女の子だった。その女の名前を聞いた。落合暢子《おちあいのぶこ》と言った。それから社長室に行く。社長室にはきれいな女秘書がいた。  レポートをさし出した。社長はそれを読む。 「さすがは東郷さんだ。仕事は早い」  レポートを読み上げ、赤座は女秘書に、コーヒーと言った。 「きみは、奈央をどう思うかね」 「魅力的な人だと思います」 「きみも、奈央を抱いてみたいと思うかね」 「そりゃあ」  と言って、言葉をのんだ。 「いいんだ、思ったことを言ってみたまえ」 「電車の中で男たちの目は彼女を犯していました。でも、妄想だけで、遠い存在です」 「どうして遠いのかね」 「とても手が届きません」 「奈央もわしだけでは不足なのだろう」  そこで、女秘書が珈琲を運んで来た。 「そのようなことはないと思いますが」 「そうではないな。わし一人をじっと待っている女は、女としては魅力がない。すぐに食い飽《あ》きてしまう。わしも安心してしまうからな。わしを安心させない女がいい」 「社長が奈央さんの素行を調べさせるのは、嫉妬《しつと》ですか」 「嫉妬もある。怒りもある。不安もある。金はあってもこの齢だからな。きみ、齢はとりたくないものだ、と言っても誰だって齢はとるのだ。こればかりはどうしようもない。だから、わしは金を使う。わしにとって女は活力源なのだ。女がいるから仕事をやっていける。女に興味がなくなったとき、わしは引退だな」 「そうですか」 「まだまだ女には興味がある。だから、わしはまだ仕事ができるのだと思っている」  女で寿命を縮《ちぢ》めることになりませんか、と言いかけて止めた。 「引き続き、奈央の調査はやってくれ。せっかちにならなくていい。のんびりと調査してくれ」 「まだ、彼女に別の男がいると?」 「いるかもしれんし、いないかもしれん。そこはどうでもいい。わしは奈央がどういう生活をしているか、知っておきたいんだ」 「わかりました。では、のんびりとやらせてもらいます」 「きみ、のんびりといいかげんは違うよ」 「心得ています」 「そうだな、一週間に一度、報告してくれたまえ、レポートでなく電話だけでもよい。いややはりレポートにしてもらったほうがいいかな」  一行は社長室を出た。そして受付に行き、 「落合さん、ぼくとデートしませんか」  と言った。彼女はびっくりしていた。一行は手を振ってビルを出た。全く脈がないというのではなさそうだ。  近くの『ロンドン』という喫茶店に入った。珈琲を頼んでおいて、会社に電話で報告した。 「引きつづいて、帖佐奈央を調査することになりました」 「わかった。いま赤座社長から電話があった。社長の気のすむようにやってくれたまえ」  と藤崎部長は言った。席にもどって来たところに珈琲が運ばれて来た。  そう言えば、斉木淳は奈央が自分に冷めたくなった、と言っていた。奈央に別の男が出来たらしいとも。その男を探し出せ、ということなのか。  赤座社長は、奈央の体を抱いていて、奈央の変化を感じるのかもしれない。女の体というのは正直だ。何かあれば反応する。もちろん女自身は気付かずにである。まさか赤座に愛撫されながら、他の男の名前を口にすることはないのだろうが。  赤座は、斉木淳のことは知っていたのかもしれない。レポートを読んでもそれほどにショックを受けた様子はなかった。すると、赤座はもう一人の男のことを気にしているのか。 「奈央にもう一人男がいたっていいじゃないか」  と呟いた。男と女は仕方のないものだ。男は女を求める、女は男を求める。求める相手がそれぞれ違うわけだ。つまり、赤座は奈央を求め、奈央は以前は斉木を求め、そして、西丸三香子は斉木を求めている。いまは斉木は奈央を求め、奈央は別の誰かを求めている。こういうのを連鎖関係というのか。  一行は立ってもう一度、電話した。プッシュホンである。ボタンを押す。 「はい、東景ハウスでございます」 「落合さん、お願いします」 「落合はあたくしですが」 「鏑木です。今日デートしませんか、いま『ロンドン』にいるんですが、何時に終りますか」 「五時半ですけど」 「そうですか、では五時半にこの『ロンドン』で待っています」 「あの、それは」  と言いかけるのを電話を切った。彼女が来るかどうかは別である。女には挑戦してみることだ。待っていたって女は手に入らない。  一行にも、半年ほど前までは女がいた。出もどり女だった。その女も再婚したのだ。いい女だったな、といまは思うだけである。  彼は一度会社にもどった。今日は麻生の奈央の家まで行くのは面倒だった。一日くらいは休んでいいだろう。仕事は明日からだ。もっとも落合暢子が来るとは限らない。来なければ来ないでいい。賭けである。賭けというのは七割は負けである。パチンコにしろ競馬にしろである。人々はあとの三割に賭けることになる。一行は一割の可能性があれば、賭けてみてもいいと思っている。  奈央にも斉木にも恋人はいる。自分だけが全くいないのだ。落合暢子に電話を掛けたのは、奈央や斉木に刺激されたからなのだ。  五時すぎに喫茶『ロンドン』にもどった。会社は五時半に終ると言った。それから帰るのだ。この店には六時になるだろう。六時と言えばよかった。  暢子は来ないかもしれない。来ないでもよかった。どうせ遊び半分に声をかけたのだ。遊べる女かどうかもわからない。真面目《まじめ》な女の子かもしれないのだ。  一行は、店の新聞を借りて来て広げた。記事を読んでいるわけではなかった。大きな見出しだけ目を通す。五時半になった。来るわけはなかった、と苦笑する。六時になったらここを出ようと思った。女というのは、そう簡単にものになるものではなかった。落合暢子は一行をおかしな男と思っていることだろう。  四十五分になった。しきりに苦笑する。だが五十分を過ぎると、暢子は店に走り込んで来た。一行の前に立ったとき、彼女は息をはずませていた。走って来たのだろう。 「無茶です、五時半なんて」 「まあ、坐りなさいよ」  と前の椅子を指した。ウェイトレスが来た。珈琲をたのむ。 「あたし、鏑木さんが知りたいこと、何も知りません」 「そんなこといいんだよ」 「だったら、なんであたしを誘ったの」 「きみが女だからさ」 「えっ?」  と暢子は一行をまじまじと見た。彼女は調査のために一行に呼ばれた、と思ったようだ。 「いけなかったかな。きみが可愛かったんだよ。だから誘った」 「そんな」 「だったら、少しだけ聞かせてくれるかな。いま赤座社長には何人の二号さんがいるのかな。社内ではいろいろ噂があるだろう」 「ええ、でも」 「酒呑みに行こうか、きみ、呑めるんだろう」  呑めない、とは言わなかった。     4  音代俊行は、六時十分に、ホテルニューオータニに来た。奈央のいる部屋は途中で電話で聞いた。五一二号室だ。エレベーターで五階に上る。ドアをノックする。待ちかねたようにドアが開いた。そこに浴衣姿の奈央が立っていた。  抱きついてキスして来るような真似《まね》はしなかった。こうしてホテルで会うようになって、もう三ヵ月ほどは経っている。ほとんど毎週だった。  もちろん、お互いに電話はしなかった。電話すれば、秘密はばれやすいのだ。だから電話はしないことに約束していた。急用があって来られないときは、その次の週まで待つ。三週待って現われないときには、仕方なく電話するということにしておいた。 「ねえ、浴室使って来て」  と奈央が言った。部屋はダブルだった。眠るわけではないから、ツインよりもダブルのほうがよかった。俊行は浴室の前で裸になる。脱いだものは、奈央が畳んだりハンガーに掛けたりする。そして俊行が出てくると、奈央が浴衣を拡げて待っているのだ。  俊行は、そのうち奈央のほうが飽きるだろうと思っていた。赤座社長は、あるいは奈央が遊ぶのを許しているのかもしれない、と思っていた。  許されているのなら、男なんていくらもいるはずだ。若くてピチピチした男の子と遊んだほうが面白いだろう。  俊行は、自分が面白い男とは思っていない。女を退屈させる男だと思っている。三十六歳になって、仕事だけのサラリーマンだ。四年前に奈央と別れてからは一度も女遊びをしていないのだ。もっとも三十代のサラリーマンにとって、女遊びする余裕などなかったのだ。経済的にもである。  一時期の遊びと思えばもうけものである。奈央には一切金はかからないのだ。会社が終れば、時間的には余裕があった。  体を洗って浴室を出ると、そこに奈央が立って浴衣を拡げていた。背中を向けると、肩に掛ける。袖に腕を通す。すると腰紐を手渡すのだ。  椅子に坐ると冷蔵庫からビールを出して来る。グラスを二つ並べておいてビールを注ぐ。もしかしたら今日あたり、奈央のほうから別れ話を持ち出して来るかもしれない、と考える。それも仕方のないことだ。家庭をこわすつもりはないのだから。 「早く来たの」 「そうでもないわ、六時に十分前くらいだったかしら」 「社長はぼくたちのこと知っているんじゃないだろうな」 「こわいの」 「こわくはないけど、うまくないね」 「大丈夫よ。そういえば、このところ尾行されているような気がするの」 「まずいな」 「大丈夫よ、タクシーを乗り換えているから、絶対尾行なんてできないわ」  ビールが空《から》になる。奈央は立ってベッドの上に寝転んだ。そして部屋の明りを暗くする。だが、その灯りは回を重ねるごとに明るくなっているような気がする。  俊行もベッドに上る。そして彼女の浴衣の衿を開く。そこに白くて柔らかい膨みがあった。その乳房を手で包み込み揉み上げる。乳首は鮮紅色に色づいていた。肌が白いだけに乳首が目立つのだ。乳首を指ではじいてやると、ウッ、と声をあげる。腰紐を解いて前を広げる。肌があらわになった。透明感のある白さだった。乳房を舐めまわし、そして手で肌を撫でる。きめのこまかいなめらかな肌だった。 「社長は、できるのかな」 「できるって?」 「ボッキするのかな、ってことだよ。きみの中に入って来れるのかな」 「一度は入ってくるわ、あなたのように硬くはないけど」  そう言って、彼女は手を俊行の股間にのばして来た。そしてペニスを握るのだ。ペニスは怒張していた。 「俊行さんは課長だったわよね」 「ああ、課長だよ」 「部長にしてあげるわ」 「おい、そんなの止めてくれよ。ぼくとのことバレてしまうじゃないか」 「大丈夫、バレはしないわ。それにあたしの言うことは何でも聞いてくれるのよ。赤座は、あたしに夢中だから」 「いいよ、ぼくは、課長のままで」 「楽しみにしていて。あなたのことは、兄の友だちと言うわ。まかせておいてよ。出世がいやなわけではないでしょう」 「でも」 「あたしね、あなたとこうしていると、何だか気持が落ちつくの、豊かな気持になれる。そのお礼よ」 「お礼なんていらないよ。奈央とこうしているだけでいいんだ」 「あたしね、気持が楽になるの。そのことは赤座にとってもいいことよ、きっと」  奈央は赤座の二号であることを隠そうとはしなかった。抱き合っていて、赤座の名前を出しても平気だった。つまり二号であることに抵抗感がないのだ。  彼女は、俊行を仰向けにすると、いつものようにペニスを咥えて来た。根元まで咥えると咽の粘膜に尖端を押しつける。そして頭を振る。咽に尖端を擦りつけているのだ。そうすることによって自分をも刺激している。そして体に火をつけているのだ。  手でふぐりを包み込む。ゆっくりと揉みしだく。指をのばして蟻《あり》の戸渡をなぞる。女の尻は手の届かないところにあった。尻から手をのばされるのがいやなのだろう。  奈央の口に呑み込まれたペニスを見ていた。もし部長になれたら、と思う。出世欲は強かった。人を押しのけても出世したかった。たしかに課長になったのも同期に比べると、四、五年は早かった。  会社では、普通は四十すぎてから課長になった。もちろん課長になれない者もいる。課長補佐で停年を迎えた男もいた。東景ハウスは赤座社長のワンマン会社であったのだ。仕事のできる社員は早く出世する。年功序列ではなかった。  仕事のできる社員は次々と出世していく。やる気のない社員はなかなか昇進できないのだ。俊行は三十五歳で課長になった。出世頭でもあった。会社では俊行の仕事を認めていることになる。 「まさか、部長に」  と胸の中で呟く。両親も俊行の出世に夢を託しているのだ。三十代で部長だなんてあり得ないよ。奈央は会社のことなんて何も知らないのだ。いきなり部長でなくても、部次長でもいいな、と思う。  出世だけが望みだった。マイホーム主義にはなりたくなかった。家族は男のためには犠牲にならなければならないのだ。出世を諦めた男たちは、家族サービス、女房孝行をする。そして庭いじりをしたり、女房の料理を手伝ったり。  そんな風に自分の人生を諦めたくなかった。いま部長になれば、五十になる前に重役になれるだろう。 「隣りのご主人、奥さまと一緒に買物に行かれるそうよ」  と妻の章子が言ったことがある。 「彼は自分の人生をもう諦めているんだ。男の勝負を一度もしないで」  と俊行は言った。庭木の手入れが好きで男は出世などできないのだ。妻と一緒に買物に行くなんて、停年後の男のやることだ。  奈央の唇の間をペニスが出入りしていた。ペニスは唾液で濡れ光っていた。口から出しては根元をしっかりと手で握り、尖端に舌を当てる。当てておいて手を震動させる。  俊行は、彼女の頭を上げさせた。そして尻のほうに回る。奈央は四つん這いになっていた。浴衣をめくり上げる。白い尻がむき出しになった。  肉付きのいい尻である。左右に広く拡がってはいない。尻の溝から手をのばす。指がクレバスに触れた。そこはすでに熱く潤んでいた。男を迎え入れるには充分すぎるほどだった。  彼女は尻を突き出した。腰を高く揚げさせておいて、ペニスを進行させた。ペニスがワギナの中に没入していく。奈央が声をあげ、尻をゆすった。     5  落合|暢子《のぶこ》は、東中野のアパートに住んでいると言った。それで新宿に出た。そして薩摩料理の店に入った。白木のカウンターだけの店である。客が十数人も入れば満席になる。  呑みものは、焼酎のお湯割りである。 「あたし、いつもハイサワーよ」  と暢子は言った。焼酎もけっこういけるのだ。平べったい急須みたいな容器に入ってくる。料理はいろいろとあった。キビナゴの刺身に薩摩揚げ、何種類かを頼んだ。 「おいしいわ」  と言った。 「社内の噂、聞かしてくれないかな」 「社長のこと?」 「そう、赤座社長のことだ。社員たちはいろいろ言っているんだろう」 「ええ、四人目の二号ができたって。何でも若い人らしいわ」 「社長は社員には手をつけないのかな。女秘書はかなり美人だったけど」 「たいていは水商売の女らしいわ。社員に手をつけたって噂、聞いたことない」 「ルールだけは守っているわけだ」 「でも、三人目の麻生さんね、社長が気に入っているのは。あたしも一度会ったことあるけど、美人よね。何だかこわいような目をしている。あんな目をしている女って、男を楽しませるの上手なのかしら」  彼女にも、奈央の目の異常さはわかるのだ。 「どうして麻生なんだろう」 「さあ、よくわかんないけど、やっぱり一番美人なんじゃないかしら。男の人が女のどこで楽しむのかは知らないけど」 「知っているんじゃないの、男がたのしむところは」 「いやだわ、そんなの」  と顔を赤くした。 「落合さんだって恋人いるんだろう。きみにいないわけないよね」 「ええ、いるわ」 「どんな恋人?」 「あたしと同じ年なの。甘えてばかりいて、頼りにならないの」  お湯割り焼酎のお代りをした。背丈はそれほどないけど、いい肉付きをしていた。と言って肥《ふと》っているというのではない。柔らかそうな肉付きだ。 「頼りにならなくったっていいんだろう。きみが頼られたっていいわけだ」 「いやよ。女はやっぱり頼りたいわ」 「それは女の甘えだよ。そのうち恋人も頼り甲斐のある男になっていくよ」 「さあ、どうかしら。そんな風には思えないけど」 「どう、彼はあの方は上手なのかな」 「すぐに終っちゃうの、あら、こんなことまで喋らせて、鏑木さんってずるい」 「ずるくはないさ、男と女の会話なんてこんなものさ、酒の席ではね」 「鏑木さんって、すごく女の人を楽しんできたんでしょう」 「それほどにはモテなくてね」 「でも、もてそう。大胆だし、あたし、今日誘われてびっくりしたわ、いつもあんな誘い方をするの、あら、こんな話じゃなかったのね」 「それにしても、社長って強いね、精力が、七十になって、どうして四人の女を満足させられるんだろう」 「社員たちは言っているわ、あれでできているらしいって」 「できているって何が」 「わかっているくせに」  暢子はチラリと一行を見た。その目は潤んでいた。 「もちろん、できている、というのはわかっているさ。だけど、もしかしたらきみにはわかっていないんじゃないかと思ってね。わかっているよね」 「ええ、わかっているわ」 「きみは恋人とできているわけだ」 「それは、当然でしょう」 「いままでできたのは、その恋人とだけ?」  暢子は顔を伏せた。 「ロコツなのいやよ」 「まあいいさ。でも、四人の女とできるってのは化物だね、近ごろはストレスで四十になったらできないって男もいる」 「あら、たった四十で」 「仕事にのめり込むとそうなる。その気があってもかんじんのものが立たないんだ。男が立たなければセックスはできないんだよね。男はあまりマジメすぎてもいけないんだ」 「そうなの、ショックだわ。四十で立たなくなったら、奥さん、どうすればいいの。一番いいときでしょう」 「三十四、五歳、あるいは五、六歳、一番いいときだろうね。悲劇だよね。あまりマジメな相手とは結婚しないことだな」 「すると、社長はほんとに化物なのね。いまたしか七十二歳よ。四人の女のところを、週に一回ずつは周っているらしいから、週に四日女を抱いて、三日は休みなのね」 「きみは、恋人とは週に一回?」 「いやだわ、そんなこと。鏑木さんは週に六日くらいできそうね」 「できても相手がいない」 「ウソ!」  一行は、暢子をアパートまで送ってやった。アパートの部屋に乗り込むべきだったのかもしれない。暢子もその気になっていたのだ。それなのに格好つけて、あっさりと帰って来てしまった。  翌日から、また麻生に通うことになる。ショルダーバッグの中に双眼鏡と小型ラジオを入れて。  双眼鏡で奈央の家の中は見える。だが、なかなか電話はかかって来なかった。電話の少ない家らしい。  斉木淳から電話があった。そのあと彼女は外出する。だがいそいそという感じではなかった。何だか斉木と会うのは義務感のようだった。もちろん、外出してホテルに入る。そこに斉木淳が現われる。二人は二時間ほどして出て来る。けれど二人とも満足したような顔ではなかった。肉体ではなく、精神的なものだろう。  金曜日には赤座が彼女の家にやってくる。もちろん、奈央は外出しないで待っている。だから、一行も休みということになる。  奈央がいそいそと出かけるのは水曜日と知った。水曜日にはまるで浮かれたように外出する。電話がかかって来た様子はない。何だろう。  もちろん、一行は奈央を尾行する。彼女は電車を降りて、新宿の町をしばらく歩いて、タクシーを止める。一行はタクシー会社と車のナンバーをメモする。奈央のあとを追いたいのだが、タクシーはなかなか来てくれない。  奈央は後ろを見てタクシーがないのを確かめてタクシーを止めているようだ。タクシー会社に会社から電話してもらう。すると、奈央は信濃町で降りたという。つまりタクシーを乗り継いだのだ。  一行は尾行に失敗した。タクシーを乗り換えられたのでは尾行のしようがないのだ。奈央は尾行を気にしているということになる。あるいは奈央に気付かれたのかもしれない。  それだけ用心するからには、会う相手は本命なのだろう。男はどこかで待っている。待ち合わせの場所はホテルだろう。  もちろん、これではどこのホテルかわからない。赤座が知りたいのは、この男のことなのだ、とわかった。  奈央が誰と会っているのかをつき止めるにはどうしたらいいのか。尾行だって相手に気付かれれば尾行しにくくなる。  一行の尾行に気付いたわけではないだろう。奈央が慎重になっている。慎重にならなければならない相手なのだ。赤座は斉木淳のことなど、はなも引っかけなかった。問題にはしていないのだ。  電話もかかって来ないと言うことは、前もって待ち合わせ場所を決めているのだ。赤座に知られたくない相手だったら、それくらいの用心はするだろう。  ホテルには別々に入る。そしてホテルを出るときも別々だろう。これでは相手を探しようがないのだ。こうなると一行もやる気が出てくる。必ずつきとめてやる。  次の水曜日には、会社の車を紀伊国屋の近くに待たせてみた。奈央がタクシーを拾えばそのタクシーを追う。そしてタクシーを乗り換えるところまでつきとめる。するとどこのホテルに行くかはわかるだろう。  だが、車を手配したその水曜日には、奈央は新宿では降りなかった。成城学園前で電車を降り、そこからタクシーを拾ったのだ。一行は次のタクシーに乗って追いかけたが見失ってしまった。  がっくり肩を落とした。敵もなかなか考えている。  一行は電車で神田神保町まで行き、喫茶『ロンドン』から東景ハウスに電話を入れた。そして落合暢子を呼び出してもらう。 「鏑木だけど、会いたいんだ」 「駄目よ、もう」 「どうして?」 「あたし、鏑木さんみたいな人、こわいの。それに恋人もいることだし、ごめんなさい」  と言って電話は切れた。ついていないときはどうしようもない。今夜は彼女を抱いてやろう、と思っていたのだ。それがパアになってしまった。  先週酒を呑んだときには、彼女はその気になっていたのだ。おそらくラブホテルに誘ってもついて来ただろう。チャンスだった。そのチャンスを逃してしまった。  チャンスは一度しかなかった。今日知り合ったばかりだから、次の機会にと思った。それがいけなかったようだ。遠慮したのがよくなかった。チェッと舌打ちした。  四章 恋 人     1  音代俊行は会社に出た。課長補佐の笠原が歩み寄って来て、 「音代さん、おめでとう」  と言った。俊行には何のことかわからない。笠原は俊行の同期である。まだ課長にもなりきれないでいる。もっとも同期入社で課長になったのは、俊行ともう一人いた。 「音代さんは仕事ができるからな、いやあ、すっかり水をあけられたな」 「何のこと?」 「音代さんの年で部長なら、重役は間違いないな。運のいい人はいいよ。いや失礼、運だけではないな、実力ですよね」 「ぼくが部長? 冗談だろう」 「うちの会社は年功序列ではない。実力主義なんだ。仕事をすれば出世できるということがわかったよ。これでぼくなんかもやる気が出てくるよ。音代さん、よろしくお願いしますよ」  何のことかわかってきたような気がした。まさか、と思っていたのだ。三階の掲示板のところで社員たちがたかっていた。そこには『音代俊行殿 右の者を営業第二部長に命ず』とあった。それを見たとたん、俊行は体が震え、背筋に冷たいものが走った。 「音代さん、おめでとう」 「とうとうやったね」 「うちの会社のホープだ」  社員たちが口々に言う。ありがとう、と言って押しのけ、営業課の部屋に入る。室内でも、おめでとうの声が湧《わ》いた。  営業第二部長は、博多の支店長に栄転した。栄転かどうかわからない。本社の部長と支店長は同格である。地方へ出た分だけ左遷になるのかもしれない。  三十代で部長になったのは、この会社でははじめてのことだろう。赤座社長はワンマンである。重役会議なども無視するし、自分の考えを押し通す。そうでなければ俊行など部長になるのは十年早かった。  そこに、奈央の力が働いているのは言うまでもなかった。彼女は、部長にしてあげるわ、と言った。いかに社長の寵愛《ちようあい》を受けているといっても、奈央にそんな力があるとは思ってもいなかった。  だが、部長になった。俊行は自分にそんな能力があるとは思っていない。すべては奈央の力だ。たしかに部長になったのはうれしい。これまでだって家庭を犠牲にしても仕事に打ち込んで来た。  課長になったのは自分の力だと思っている。だが、いくら何でも部長というのは大きすぎる。よろこびと同時に不安も覚えた。たしかに俊行は出世がすべてだった。出世して世間を見返してやりたかった。  だが、部長になったのは自分の力ではないのだ。奈央の力だ。つまり、奈央は社長にそれだけ愛されているということになる。  その奈央と情事関係を持っている。そこに俊行の不安がある。奈央が俊行を部長にした。奈央に男として大事なものを握られたような気がしたのだ。つまり、奈央あっての部長ということになる。部長という席が砂上の楼閣のように思えてくる。実力で得た椅子ではないのだ。  卓上の電話が鳴った。社長室からだった。女秘書が、 「社長が、部屋においで下さいとのことです」 「わかりました、すぐにうかがいます」  と椅子を立っていた。まだ、奈央のことはばれていないはずだ、と思う。部屋を出るとエレベーターで上った。社長室のドアをノックする。返事があって、ドアを開ける。赤座は大きな机を前に坐っていた。 「おめでとう」  と言って立ってくる。赤座は歩み寄って来て手をさし出した。俊行はその手を握る。肉厚の硬い手だった。 「ありがとうございます」 「まあ、坐りたまえ」  と言って赤座はソファに坐った。俊行は立ったままである。とても坐れなかった。 「重役たちには反対意見もあったがね、わしにはわしのもくろみがあった。きみを部長にすることによって、社員たちは希望を持つ。働けば出世できるのだとね。きみは社員たちの希望の星だ、いいね」 「はっ。心しております。命を賭けて仕事に励みたいと思っています」 「きみはよく仕事をやっている。その点はわしも認めている」 「ありがとうございます」 「だけど、きみに部長としての仕事ができるとは思ってはおらん。もっともそれはこれからのことだがね。会社もこの時期に活性化したい。それにはきみのような人材が必要なのだ。そのためにきみを部長に選んだ」 「ありがとうございます」 「ところで、きみは帖佐奈央という女を知っとるかね」  ハッ、となった。 「いいえ、存じませんが」 「奈央はきみを兄の友だちだと言っている」 「はっ、そういえば、大学のときに帖佐という友だちがいました」 「きみは運もいい。運というのは男にとっては大事なものだ。いかに能力があっても運がなければ出世はできない。きみが持っている運を会社のためにも使ってくれたまえ」  と言って赤座はソファを立った。 「ありがとうございました」  と俊行は頭を下げて社長室を出た。大きく溜息をついた。背中にはびっしょり汗をかいていた。もし、奈央とのことが赤座に知られれば即刻クビだろう。  営業課の席にもどると、どっと疲れを覚えた。 「課長、いや部長でした。顔色が悪いですよ」  と課員が言った。 「たいしたことはない。ちょっと風邪気味で熱があるようだ」 「だったら、早くお帰りになって休まれたほうがいいのではないですか」 「きみ、風邪くらいで会社を休んでどうする。会社は戦場なんだからね」 「はい、失礼しました」  だが、何はともあれ、部長になったことはうれしい。こんなに早く部長になれるとは思わなかった、というのが実感である。  その日は会社が退けると我が家に帰った。 「章子、おれは部長になったよ」  と言った。 「あなた、ほんとなの」 「ほんとだ。今日、社長に呼ばれた」 「凄いわ、あなたの齢《とし》で部長だなんて。ただの人ではないと思っていたけど、ほんとだったのね。あなた、おめでとう」 「これからがきついけどね」 「よかったわ、何かお祝いしなければね」  章子は手放しでよろこんでいる。俊行には後ろめたさがあった。実力で部長になったのではないからである。社長は運をもっていると言った。その運とは帖佐奈央に出会ったことだろう。 「忙しくなるわね、体を大事にしないと」  彼は体力には自信があった。 「どんなお祝いをしたらいいのかしら」 「お祝いなんていいよ。会社の連中がしてくれるさ。章子は、家を守っていてくれればいいんだ」  翌日、辞令が降りた。そして部長の椅子に坐る。彼の下の次長も課長も年上である。俊行は、二人にていねいにあいさつした。  三日後に、社員たちが祝賀会を開いてくれた。もちろん俊行の出世をねたむ者もいる。出る杭《くい》は打たれるのだ。だが、多くの社員は、東景ハウスのホープとして祝ってくれた。  部長ともなると接待が多い。毎日のように酒を呑まなければならない。もちろん接待費は会社から出る。料亭やクラブに出入りすることになる。部長としての威厳はもっていなければならないし、愛嬌《あいきよう》もなければならない。官庁の仕事もある。その仕事を取るのも仕事である。下請会社もうまくあやつっていかなければならない。課長のころとは仕事の内容が違ってくるのだ。  もちろん、部下たちともうまくつき合っていかなければならない。特に課長には接近した。課長がしっかりしていないと営業成績は上らないのだ。課長と酒を呑む回数をふやした。もちろん係長もである。課長は四十五歳になっている。俊行よりも八つも年上である。  だが、俊行は水曜日だけは空けておいた。奈央と会わなければならないからだ。奈央と会ってよかったのかどうか、あるいは課長のままでいたほうが気楽でよかったのか。だがサラリーマンなら出世しなければ嘘だ。気楽な稼業ではいけないのだ。     2  水曜日、五時半退社、水曜日だけは退社後はいつも空けておいた。忙しいからという弁解は通らない。奈央が首を長くして待っているのだ。  会社を出る。あたりが気になり、首を回す。尾行する者などいるわけはないが、用心はしなければならない。つまり被害妄想になってしまうのだ。  社内でも、俊行の出世に不審を抱いている者がいないとは限らない。俊行の秘密を探り出そうとする者がいないとは言えないだろう。表むきはとにかく腹の中ではライバルなのだ。用心するに越したことはない。  課長のころはそれほど気にはしなかった。部長になってからは、特に気にするようになっていた。自分でも部長になった後ろめたさがあるのだ。水道橋から電車に乗って、御茶ノ水で降りる。そこでタクシーを拾う。いつも後ろを気にしていた。そして車をホテルニューオータニにつける。途中電話を入れて奈央の部屋を聞いておく。  フロントでそのことを聞くと、尾行されていれば、すぐに部屋がわかるだろう。まっすぐにエレベーターに乗る。七階のツインルームだった。  ドアをノックすると、浴衣姿の奈央が姿を見せる。いつも彼女のほうが早いのだ。もっとも暇があるのだから。  部長になってから彼女に会うのは三回目である。彼女に出会ってから一年数ヵ月が経っていた。一年数ヵ月間、毎週、奈央に会っていることになる。  もうそろそろ飽きていいはずなのだが、と思う。だが奈央は飽きる様子はなかった。俊行に会うことが生き甲斐だと言った。  もっとも赤座は奈央とはもっと長いことになる。いまだ奈央の体に飽きないようだ。赤座が奈央に飽きたとしても、俊行の部長の椅子はゆるがないだろう。  俊行は着ているものを脱いで浴室に入る。タブに湯はたまっていた。タブに入ってシャワーを浴びる。  ドアが開いて奈央が裸になって入って来た。 「いいかしら」  駄目だ、と追い出すわけにはいかないのだ。おいで、と言う。彼女はタブに入ってくる。タブは浅い。二人で入っても腰までしか湯が来ない。これだったら、まだラブホテルの風呂のほうがいい。  彼女は素肌を男の目にさらした。まだ体には自信があるのだ。透明感のある肌だった。赤座に抱かれるのが仕事である。そういう生活をしていると体に脂がのってくるものらしい。肉はたるんでいないが、肌はよく脂が乗って三十女のようになっているのだ。  狭いタブの中で抱きついて来た。彼は抱き寄せて腰から尻のあたりを撫でる。 「体を洗ってあげる」  と言った。俊行はそこに立ち上ることになる。石鹸の泡を背中から塗りつける。そして手で洗っていくのだ。女の手が彼の肌にすべっていく。そして前むきになる。ペニスは勃起していた。  女の体を前にして勃起しないわけはないのだ。胸から腹へ、そしてペニスに石鹸を塗りつける。そして手で撫で洗いする。ペニスは軽く握って擦った。  そして肩からシャワーを掛ける。また、タブに坐り込んだ。彼女は彼の膝の上に尻を乗せて来た。シャワーを彼女の肌に向ける。ふふっとくすぐったそうに笑った。 「あたし、昨日、新潟に帰って来たの。母を見舞いに」 「お母さんはどうだった」 「いつもの通りよ。悪くはならないけどよくもならないの。母のことじゃないの」 「何かあった?」 「ええ、帰りの新幹線の中で、人が殺されたのよ」 「殺された?」 「それも、あたしの目の前で」 「殺されるのを見た?」 「そうじゃないの。あたしがトイレを出たところで、女の人が倒れていたのね、お腹をナイフで刺されたの。隣りのトイレから出ようとしたところを刺されたらしいのね。肝臓を刺された、と言っていた。あたし、震えちゃった。オシッコ洩《も》れそうだった。そのときにはその女の人生きていたの。もう一人男の人がいて、その人はお医者さんだったの。そのお医者さんとあたしが第一発見者になったのね」 「犯人は見なかった?」 「見なかったわ。だけどあたしが三十秒早くトイレを出ていたら、犯人がその女の人を刺すところを見たのかもしれない。その女の人、死ぬまえに�ジョ�とだけ言ったの」 「ダイイングメッセージなわけだ」 「お医者とあたしが一緒に聞いたんだから間違いないわ。血がドローッと流れ出すの、まるで生きているみたいに」 「列車は走っているからな」 「こわかったわ、人が刺されて死んでいくのを見たのよ。あたし、しゃがみ込んでしまいそうだった」 「一分早くトイレを出ていたら、奈央が刺されたのかもしれないな」 「冗談言わないで、そんなのこわいわ。どうしてあたしが刺されなければならないの」 「トイレは二つ並んでいるんだろう」 「そうよ」 「犯人はあとからそこへ来た。だけど、どっちのトイレに入ったかわからない。おそらくトイレに入るところは見ていないんだろうな。すると先に出て来たほうを刺す。間違いやすいね」 「すると、あたしが刺されていたかもしれないと言うの」 「どんな女だった」 「三十一歳って言っていた。あたしよりも一つ年上よね。でも見た目はそれほど違わないわね。そういえば、あたしと似たような色合いの服着ていたような気がする」 「もしかしたら、犯人は奈央を狙っていたのかもしれない。トイレの外でナイフを手にして待っている。ドアが開いて女が出て来る。とっさに女を刺す」 「いやよ、そんなの、どうしてあたしが殺されなければならないの」 「冗談だよ、そんなことあるわけない」 「でしょう、あたしは殺される理由なんかないわ」  俊行は先にタブを出た。体を拭って浴室を出る。そこに用意してある浴衣を着る。冷蔵庫からビールを出して呑む。奈央は浴衣姿で出て来た。 「何だか、体が怠《だる》くなったわ」  と言って彼女はベッドに横になった。まだ時間はたっぷりある。急いで相手を求めるほど若くはなかった。それに馴れた体である。  奈央もまた、ねえ、来て、とは言わない。この部屋だけは安心だった。誰に見られるわけでもない。部屋にいる限りは秘密は保たれるのだ。  彼女もベッドから起き上るとビールを出して来た。二人とも馴れてしまっている。馴れるとお互いに新鮮味はなくなる。もっとも新鮮さを求めるのは男だけかもしれない。女はすぐに馴れたがるし、馴れてから続くのだ。  ビールを呑む。白い咽がヒクヒクと動く。 「どうしたの、何を考えているの」 「別に、何でもないよ」 「あたしといるときには、仕事のことなんて考えないで。あたしは俊行のことだけ考えているのだから」  奈央は立って彼の膝の上に尻を乗せて来た。柔らかい尻である。両腕を男の首に回した。 「あたし、こうして俊行と一緒にいると、穏やかな気持になれるの、不思議ね。赤座に抱かれているときだって俊行のことを考えているのよ」  同じ言葉をよく聞く。だがその言葉も少しずつ変っていくようだ。以前は赤座の名前は出さなかった。 「でも、よく七十三歳でできるな」 「元気なものよ、もっとも俊行のほど硬くはならないけど」  彼は浴衣の上から乳房を掴んだ。乳首がしこっているのがよくわかった。衿の間から手を入れて生の乳房を包み込み、揉みあげる。あーっ、と声をあげた。柔らかい乳房である。だがまだ若いので垂れるほどではない。  膝の上を離れるとベッドに上った。もちろんさっきからその気なのだ。俊行もベッドに上る。そして浴衣の裾をめくった。肉付きのいい白い腿があった。形のいい腿である。彼はその腿に唇を押し当てた。そして腿を撫でる。恥丘には黒々とした茂りがある。もっとも多毛というのではない。まとまって生《は》えているのだ。  内腿を撫であげる。そこははざまだ。つるんとしていた。そこに手を上下させる。彼女は腿を締めつける。すると手は動けなくなる。しばらくすると、腿の力をゆるめる。指がクレバスを割った。そこはすでに潤んでいた。  奈央が新幹線の中で殺されていればどうなったのか、と思っている。ほんとに犯人は狙い通りの女を殺したのだろうか。間違って奈央が殺されていたのかもしれない。  何となく列車の中の奈央を思ってしまう。そう考えてハッとする。奈央が殺されるのを願っているのか。俊行は部長になった。もう奈央はいらないのか。  クレバスの中で指を躍《おど》らせる。女の腰がなまめかしく動いていた。 「あたし、いつまでも俊行とこんなことしていたい。おかしいのよね、昔のあたしと違ってきたみたい。俊行に対する気持がよ。あのときには簡単に別れられた。たいして痛みもなかった。でも、いまは違うの。自分でもよくわからないんだけど」  ワギナの中に指二本を没入させた。ワギナの中もしっとりとしていて、襞《ひだ》が指に絡みついてくる。彼はクレバスを見ていた。赤座になぶられているにしてはきれいだった。肌の色が白いから、メラニンは浮き上ってこないらしい。  奈央も以前はこんなことはさせなかった。そこに触れられるのをいやがった。だがいまは違う。彼に触れられてよろこぶのだ。彼に対して羞恥心が薄くなって来たのか、俊行には心も体も開いてしまっているのだ。  指を使うごとに彼女は腰を振りまわす。そして悦びの声をあげる。 「ねえ、あなたの欲しいわ」  と言った。俊行は体を起すと、女の股間に腰を割り込ませた。そして尖端をクレバスに当てる。それを彼女は腰を持ち上げて迎えに来た。一気に根元まで呑み込み、しがみついてきた。     3 『上越新幹線殺人事件捜査本部』——。  捜査本部に、捜査主任の財津はいた。部屋の中を両手を後ろに組んで歩きまわる。事件から二十日ほどが経っていた。  はじめは簡単に解決するように思えた。捜査しているうちにだんだんわからなくなるのだ。  容疑者は二人いた。被害者朝永真弓の新潟の愛人行友圭一郎、もう一人は真弓の夫の弘史。圭一郎には別に愛人がいた。沼田マミである。夫の弘史にも恋人がいた。土山杏子《つちやまきようこ》という二十三歳になる女の子である。  土山杏子は絵描きのたまごだった。美術大を卒業して、いまは画商のところで業務員代りのアルバイトをしている。たくさんの絵を見られるからという理由である。  まず、行友圭一郎だが、アリバイははっきりしていないが、真弓を殺す動機がなかった。真弓は人妻である。結婚してくれと迫っていたわけではない。ただ、二、三ヵ月に一度、真弓のほうから会いに来ていた。それだけである。真弓もまたそれほど圭一郎に熱中していたわけではなかったのだ。  ただ夫の弘史には恋人がいる。その腹いせのように新潟に来ていた。憂さ晴しをしているだけのようだった。圭一郎にしても、沼田マミという女がいる。真弓にこだわることもなかった。  アリバイがないからと言って容疑者になるわけではない。世の中のほとんどの人がアリバイのない生活をしているのだ。  夫の弘史にもはっきりしたアリバイはなかった。もちろん、会社には行っているが、抜け出して真弓を殺してもどって来る時間はあったのだ。 「世の中は不倫だらけか」  と財津は呟いた。あっちも不倫、こっちも不倫だ。不倫とはそんなに面白いものだろうか、と思う。  真弓には他にも男がいたのかと、真弓の周辺を探ってみたが出て来なかった。  朝永弘史は、真弓が遊んでいることは知っていた、と言った。京都に行くと言って新潟に行っていた。そのわけも弘史は知っていたのだ。もちろん弘史には土山杏子という女がいた。そのために真弓には文句を言えなかったようだ。真弓も弘史に女がいることを知っていた。だから堂々と新潟に行けたのだ。  それで夫婦として成り立っていたという。弘史は真弓と別れる気はなかった。もちろん土山杏子と結婚する気などなかった。杏子もまた弘史とは何となくつき合っているだけで結婚など考えたこともない、と言っていた。  真弓の周りの者たちに殺意を持っている者はいないということになる。だが腹の中まではわからない。  もしかしたら杏子は弘史と結婚したかったとなれば、真弓を殺すかもしれないのだ。弘史だって同じことが言える。真弓と夫婦でいることはたまらなかったのかもしれない。真弓は簡単に不倫するような女である。  行友圭一郎は、真弓という女がいながら、沼田マミという女を持っていた。マミは圭一郎の新潟妻だったのか。真弓という女がいてもいつも会えるわけではない、二、三ヵ月に一度だ。これでは愛人の役目は果せない。それでマミを求めた。  圭一郎にとって真弓はどうでもいいような女だったようだ。どうでもいい女を殺すことはない。人を殺すには、それだけの動機がなければならない。あるいはまだその動機が見えて来ないのかもしれない。  財津は首をひねる。黒板には、�ジョ�という文字が大きくチョークで書いてある。彼はこの文字を何日もみつめていた。�ジョ�とは一体何なのか。どうして真弓は死にぎわにジョと言ったのか。  これが名前だとすると、ジョージのたぐいの外国人の名前になってしまう。もっとも譲次とか譲司とかいう日本名はある。だが、真弓の周辺にはそのたぐいの名前の人物はいないのだ。  もちろん、真弓は刺した者の顔は見ているはずだ。顔は見合わせた。その顔は真弓の網膜に残っていたはずだ。その網膜を映像化することができれば、たいていの殺人事件の犯人は逮捕できるのだ。以前、その研究がはじめられたとか、はじめるというような話があったが、いつの間にか立ち消えになった。  被害者の網膜に犯人の顔があれば、殺人事件のほとんどは解決できることになるだろう、なんて、よけいなことまで考えてしまう。  第一発見者の二人も内偵はした。岡田啓治は大学病院の医師だった。この岡田に看護婦の愛人がいた。そして帖佐奈央は会社社長の二号だった。この二人はどうしても真弓とは結びつかないのだ。  岡田は新潟にいる先輩医師に会いに行っての帰りだった。帖佐のほうは、新潟生まれで実家の母親が入院しているので見舞いに行った。二人が新幹線に乗っていたことは不自然ではなかったのだ。  財津は歩き疲れたように椅子に坐り、煙草に火をつけた。煙草は止めたつもりだった。だが、禁煙は一週間とは続かなかったのだ。何か考えているときに煙草がないと焦立《いらだ》ってくるのだ。  捜査本部には情報が入って来なくなった。もしかしたら殺害の動機はもっと違うところにあるのではないかと思う。例えば、何か見てはならないものを見たために、口封じのために殺されたとか。また、男か女が倒れている。それを見ても何もしなかった。彼女が救急車を呼んでいれば助かったかもしれない。それで死んだ身内が恨みに思って真弓に復讐した、なんてことを考えるとキリがなくなってくる。だが、そういうこともまれにはあるのだ。また、本人は全く気付いていないのに恨まれている。  だが、それでは捜査のしようがないのだ。いまは真弓のことを更に深く捜査している。友だちや知り合いに、死ぬ前に真弓が何か言っていなかったかを。  真弓の友だちの青井良子は、真弓は行友圭一郎とは遊びみたいだったと言っている。恋しているとか愛しているとか、そんな関係ではなかった。結局暇つぶしだったのだと。  古い言葉で言えば、小人閑居して不善をなすたぐいのものだったようだ。生活ができて暇ばかりあると、おかしなことをやるものだ。だから、行友だって本気で真弓とつき合っていたわけではないのだ。女がたまたま新潟にやってくる。それで仕方なく抱いてやっていた、ということらしい。  何も新しい情報は入って来ない。このままでいくと迷宮入りになってしまうかもしれない。それでは財津の黒星になってしまう。 「二号さんか」  と呟いた。帖佐奈央のことである。新幹線に乗り込んだとき、奈央は現場に立っていた。妙な女だな、と思った。ふつうの女とは違っていた。二号と聞いて、なるほどな、と思った。  絶世の美人というのではない。たしかに美人ではあった。妙だと思ったのは彼女が身につけているムードだった。セクシーだった。それだけではない。淫蕩というのではない。どういうたぐいの女だろう、と思ったのは確かである。  このようなムードを体につけている女はいる。たとえば銀座の高級クラブのホステスとか、ママとか、女としての独得の何かを持っている。そしてその女が生活臭を全く持っていないことだ。デザイナーとかテレビ局のプロデューサーなど、キャリアウーマンと呼ばれる女たちがいる。これらの女たちは、仕事の厳しさみたいなものを身につけている。  二号の女たちにはその厳しさもない。だから筋肉はゆるみっ放しである。収入源はただ肉体だけである。肉体を使うことによって収入を得ている。 「柔らかそうな肉付きだった」  と財津は呟いた。一度でいいからあんな女とベッドを共にしたいと思う。もちろん奈央にだってそれなりの事情というのはあるのだろう。社長の持ちものになったという事情が。  パトロンに抱かれてどういうポーズをとるのか、どんな声をあげるのか、どんな反応をするのか、これはもう妄想の世界である。  もちろん財津だって警察官である前に男である。それくらいの妄想はする。妄想は自由なのだ。  芳原刑事が入って来た。 「芳原くん、何か出たかね」 「むかし、まだ真弓が短大のころですが、恋人がいたそうです」 「結婚前だったら恋人くらいはいただろうな。それで、その恋人はいまどこにいる?」 「札幌だそうです」 「その後、つき合いはあったのかな」 「さあ、その辺は出て来ませんね」 「とにかく、それをもう少し突っ込んでくれ」 「わかりました」  刑事の働きは九八パーセントまでは無駄だと言われている。無駄も仕事である。歩きまわって靴も三ヵ月でつぶれてしまうと言われている。もっとも歩くということは、体のためにいいことだ。現場の刑事には糖尿病は少ないそうだ。     4  鏑木一行は、麻生で張り込んでいた。盗聴器は機能している。だが、電話からは情報は入ってこない。だが、水曜日になると奈央は朝からそわそわしていて落ちつかない。そして午後三時か四時になるといそいそと外出するのだ。  だが、奈央を尾行しても、必ずまかれてしまうのだ。よほど用心しているらしい。用心されると、尾行というのはできない。タクシーを乗り換えられると、ほとんど尾行は不可能なのだ。前のタクシーの運転手が乗り換えるタクシーのナンバーを覚えていてくれれば追及もできるのだが。  奈央には斉木淳の他に惚れた男がいるのだ。それはどうにかわかってきたが、その男の正体が掴めないのだ。まだその影も見せない。  斉木淳からは電話がかかってくる。その電話の内容は録音してある。奈央は淳に呼び出され、いやいやながらも出かけていく。これは、あまり尾行に気を使っていない。ホテルをつき止めることはできるし、淳のあとを尾行することもできる。  この斉木淳のことは赤座社長もほとんど気にしていない。赤座に抱かれた反動で奈央は若い淳を求めている。これは半分遊びで、奈央はほんの気晴しなのだ。それくらいのことは仕方がない、と赤座は思っているのだろう。  奈央には新しい男ができた。その男に夢中になっている。けれど淳も拒めないというところか。女は好きでなくても男に抱かれることができる。だから二号とか妾《めかけ》という商売もできるのだ。  彼女は淳に誘い出されて、仕方なさそうに出かけていく。水曜日の男のときとは全く違うのだ。会う男によってこんなにも違うのかと思うほど、歩き方からして違うのだ。  新しい男とはいつのころから出来たのか。調査を依頼されたころなのか。一行はもう長い間、調査をやっているような気がする。赤座は調査をやめろとは言わないのだ。  奈央は、小田急線の鶴川から電車に乗った。そして新百合ケ丘で急行に乗り換える。そして新宿駅で降りる。地下に行き、タクシー乗り場の列に並ぶ。一行は奈央のすぐ後についた。  尾行など気にしていない様子だ。タクシーに乗り込む。幸い次のタクシーがやって来た。乗り込むと、 「あのタクシーを追ってくれ」  と運転手に言った。奈央はゆったりとシートに坐っている。タクシーは東京グランドホテルに着いた。彼女はホテルの中に入っていく。ロビーで待っていた斉木淳が立ち上った。奈央はフロントでチェックインする。そしてエレベーターに向う。淳は先にエレベーターの前で待っていた。  一行はロビーで二時間以上は待たされることになる。眉を寄せた。部屋では淳が奈央を抱くことになる。 「ちくしょう」  と呟いた。東景ハウスの受付嬢、落合暢子に振られてしまったことだ。一行らしくなく遠慮した。あの夜、暢子はその気だったのだ。それなのにまたというチャンスがあるだろうと思った。少しは紳士らしく、そう考えただけチャンスを失ってしまったのだ。  おれとしたことが、と苦々しい。あのままラブホテルに連れ込むべきだった。翌日は、暢子の気持が変っていた。チャンスとはそんなものだ。逃した魚は大きい。  三時間ほどして淳が先に出て来た。奈央は後から来るのだろう。淳はホテルを出る。一行は淳を尾行することにした。淳は地下鉄の駅に向う。そして地下鉄で新宿へ出た。まっすぐ喫茶『滝沢』に向った。  そこには西丸三香子が待っていた。一行はこの三香子のことが気になっていた。どういう女なのかをつきとめてみたいと思ったのだ。奈央とは直接関係はないだろう。  だが連鎖の中の一人である。淳は奈央に夢中である。三香子は淳を愛しているらしい。三香子に矜《ほこ》りがあれば淳とは別れるだろう。別れられないということは、矜りよりも愛情のほうが重いということなのか。  一行は淳たちの隣りの席に坐った。淳とは横一線になる。三香子は一行の斜め前になる。視線を合わさないようにして、三香子の顔を盗視する。  背は高いし、なかなかいい女だ。淳とは似合いの女だ。奈央なんかにこだわらずに、この女と結婚すればいい。もっとも男と女の関係というのは、なかなかうまくいかない。淳は奈央を忘れられないようだ。  奈央もきっぱりと淳を突き放してしまえば、お互いのためにいいはずだ。だが、奈央は淳を拒否することはできない。  一行は淳に声をかけてみようかと思う。するともう一人の男のこともわかるかもしれない。だが、そうなると奈央を調査していることがわかってしまう。やはりそのことを奈央に知られたくなかった。知られれば調査がよけいにやりにくくなるのだ。  三十分くらいお喋りすると二人は席を立った。そして店を出ていく。歌舞伎町には向わなかった。どこへ行く気なのか。新宿南口のほうへ歩く。そして渋谷へ向う道に出る。  しばらく歩くと、『新宿パークホテル』があった。シティホテルである。二人はホテルの中に入っていく。最近はラブホテルよりもこういうホテルを利用するアベックが多いという。  ラブホテルのほうが解放感があっていいと思うのだが、快楽を求めるだけに入るという抵抗感があるのだろう。シティホテルだと、その抵抗感が薄められるのか。  淳がチェックインする間、三香子はエレベーターの前でうつむいて立っていた。この女の体も、淳の手によって開かれるのだ。一行はチェッと舌打ちした。二人はエレベーターに乗って消えた。また二時間以上は待たなければならないのだろう。  このホテルの奥には寿司屋があり、酒場があった。一行は寿司屋に入った。カウンターに坐ってビールをたのみ、寿司を摘む。  麻生で張り込んでいるときには、弁当かパンを買っていく。食事を取るヒマがないのだ。張り込み尾行しても報われるものは少ない。だが一行にはこういう仕事が合っていた。ふつうのサラリーマンのような仕事は性に合わない。体質によって仕事のむきふむきというのはあるものだ。頭は使わないで体だけを使う。こういう仕事は、頭はたいして使わないですむ。その辺がよかったのだ。  少し早目にロビーにもどって来た。ロビーのソファに坐って新聞を広げる。二時間半ほど経って二人は姿を見せた。チェックアウトのために、淳だけがフロントに行く。三香子は、ホテルの表に立っていた。  淳と三香子は肩を並べて歩く。彼女の腰の動きが妙だった。そう思って見るからなのだろうが。二人は新宿駅に向って歩く。  新宿駅で二人は別々の電車に乗る。三香子が淳の乗った電車を見送った。三香子は山手線に乗る。一行は、三香子を尾行する。どのような女なのか、知っておきたかったのだ。もちろん奈央には関係ない女だろうが。  品川駅で京浜東北線に乗り換え、蒲田で降りた。駅から歩いていく。西蒲田というあたりの古い家に入った。表札には『西丸』とあった。明日になったら、このあたりで聞き込めばいい。  一行は寮のある恵比寿に向った。今日の仕事は終りである。まだ電車のある時刻である。それほど遅いという時間ではなかった。  翌日——。  一行は東景ハウスに向った。ビルの受付には落合暢子がいた。手をあげてあいさつした。もう一人の女が社長室に電話を入れた。 「どうぞ、社長室でお待ち下さいということです」  と女の子が言う。一行はエレベーターで社長室に向った。ドアをノックすると、女秘書が、 「社長はいま会議中です。でも、もう終ると思いますのでどうぞ」  と言った。一行はソファに坐る。女秘書がお茶を淹《い》れてくれた。 「社長は、お元気ですね」  と声をかけた。 「ええ、めったに会社はお休みになりません」  二十五、六か、いい女である。身長もあるし、もちろん知性もある。社長はこのたぐいの女には手をつけないらしい。  社長の四人の女も、以前の女たちもみんな水商売の女たちだそうだ。ルールをわきまえているのだろう。あるいは古いタイプの男と言えるのかもしれない。水商売の女は、売りもの買いものという古い考え方がある。素人女には手をつけないのだ。  週に一回は四人の女の家を回っている。それを元気と言ったのだ。おれなら四人の女をあつかえるだろうか、と思ってみる。  女秘書が動くのを見る。腰の形がよかった。一行は、このところ、女に飢《う》えている自分を知った。女とみればみんな裸にしてみたくなる。おそらく奈央のせいだろう。奈央を張り込み尾行していると、妙な気分になってくるのだ。  社長がもどって来た。 「鏑木くん、来ていたか」 「はい、お知らせしておこうと思いまして」  赤座は向いのソファに坐った。秘書が大きな茶碗にお茶を淹れてくる。それをすすった。  水曜日の奈央の行動を報告した。 「水曜日の男か」 「それが、慎重でなかなかつき止められません。都内のどこかのホテルではあると思うのですが」 「なるほど、そんなにいそいそとしているのか」 「この間の報告書にあった斉木淳に会いに行くときとは、全く違っています」 「そうか、水曜日か、いいことを教えてくれた。尾行というのは相手が用心していると、なかなかつきとめられないようだな」 「申しわけありません」 「いや、奈央は頭の悪い女ではない。だが、いそいそと男に会いに行くところを、きみに見られたのは、やはり女だな」 「お互いに電話はしないようです。待ち合わせを前もって約束しているのだと思います」 「なるほど、奈央よりも相手の男が用心しているのかもしれんな。男は、奈央とのことをわしに知られたくないのだ」 「なるほど、そういう考え方もありますな」 「わしとは限らんな。他の誰かかもしれん。情事というのはもともと人に知られたくないものだ」 「もう少し張り込んでみます」 「ご苦労だが、そうしてくれ。奈央はその男に惚れているのかな」 「そう思われます」 「どういう男だろうな」 「もしかしたら、奈央さんが、社長と知り合われる前の恋人かもしれません」 「なるほど、それもあるな」  一行は、以前、奈央が働いていたクラブと奈央の新潟の実家を聞いた。 「場合によっては、新潟まで行ってみたいと思うのですが」 「そうしてくれ」  それでは、と社長室を出た。     5  赤座昌也は、会社を終えて車を麻生に向けさせた。水曜日は直子のところへ行く日だった。直子には、今日は用ができて行けぬ、と電話しておいた。  直子は一番新しい女である。赤座が通っているクラブに若い女の子が入った。小柄で可愛い女の子だった。ママに話を通した。直接|口説《くど》くよりも、ママから説得してもらったほうがいいのだ。女の子はあっさり承知した。それが直子だった。  最近の女の子は割り切るのが早い。ホステスという商売は傍《はた》で思っているほど楽ではないのだ。  直子はマンションに住まわせた。もちろんそれだけで大金がかかった。だが、大金も惜しくなかった。いまの生き甲斐は女だけだった。  若いころの反動だろう。女は欲しかったが好む女はなかなか手に入らなかった。そのころは金もなかったし、女を口説くということも知らなかったのだ。  会社が順調に発展して来て、金も自由になるようになった。それでまず女に手を出した。クラブの女たちである。高級な会員制クラブには美人がうようよいる。選りどり見どりなのだ。  その中から自分好みの女を探した。そしてママに相談する。たいていの女はOKする。すべて金の力なのだ。女も金の前には股を開くのだ。  若い女と一緒に寝るということはいいものだ。仕事で疲れた気分を和ませてくれる。快楽というのは金で買うものだ。  そばに若い女が寝ている。女の精気みたいなものが伝わってくる。赤座が七十三歳になってもまだ機能を持っているのは、女たちのせいである。  好みの女を抱けばそれだけで精気がもどってくるような気がする。女を遠ざければ男の精気は失われていき機能しなくなる。自然に女に対してのその気がなくなってくる。女はいらなくなってくるのだ。  男は仕事をやっている以上、女を遠ざけてはいけないのだ。仕事をやっていけるのは女がいるからだ。女に興味がなくなったとき現役からは引退することになる。  若い女とはいいものだ。肌に触れる。乳房を揉む、またはざまに手を這わせる。それで精気が自分に流れ込んで来る。  回春剤とはクスリではなく、女を抱くことである。クスリではどうにもならなくても、若い女を抱いていればペニスも勃起するようになる。  赤座は、クラブで奈央を見たとき、これはと思った。奈央もまたあっさりと赤座のものになった。  数年前に買っておいた麻生に住まわせた。この女は、他の女たちとは違っていた。第一に目つきが違っていた。多少は目が悪いのかもしれない。三白眼でじっと見つめる癖がある。  赤座も古い男だから、目に異常のある女はワギナにも異常があると知っていた。本人は気付いていないが、たしかにその通りだったのだ。  奈央は、赤座にとって特別な女になった。つまり赤座のほうが奈央にのめり込んでいったのだ。  他の三人の女たちにも、男はいるようだ。老人の相手をしたあとは、若い男を抱きたいのに違いない。だが、赤座はそれらを大目に見ていた。たしかに買った女たちには違いないが、彼女たちだって人間だ。  若い男が近くにいて、赤座とのバランスがとれるのだ。若い男がいるからこそ赤座の要求にも応えてくれる。もっとも生殺与奪の権は赤座が握っている。  麻生には、奈央はいなかった。探偵の鏑木が言った通りだった。もちろん、奈央にも外出してはいけないとは言っていない。赤座が訪れる以外の日は自由だった。  お手伝いが一人残っていた。 「どこへ行った?」 「わかりません、奥さまは何もおっしゃいませんでしたので」 「何時ころ帰る?」 「それもわかりません」 「帰宅時間くらいは聞いておきなさい」 「はい、申しわけありません」 「水割りの用意をしなさい」  赤座は、居間にあるソファに坐った。そして煙草に火をつける。 「嫉妬か」  と呟いてみる。彼が東郷警備に調査を依頼したのは、なんとなく奈央の様子が変ってきたからである。奈央にこだわっているから変化もわかるのだ。 「男とつき合ってもいいが、男に惚れるな」  と言ってある。そう言える権利が赤座にはあるのだ。  お手伝いがウヰスキーのボトルと氷を運んで来た。 「薄く作ってくれ」  と言った。シングルの水割りである。薄いほうが体にはいい。水代りである。むかしは日本酒がよかったが、いまでは日本酒は酔いが早いのだ。そして頭が痛くなる。うまいのは日本酒だが、すでに体がついていかなくなっている。  赤座は、奈央に斉木淳以外に男ができたことを知った。それで調査を依頼した。奈央の男がただの男ならよかった。だが、少し違っていた。  鏑木が言ったように、その男と会うときには奈央はいそいそと出かけていくのだ。そのいそいそが気に入らなかった。気にしなければ、そのまま済んでいたのかもしれない。赤座と別れたいと言い出したのではない。 「嫉妬か」  とまた呟く。自分は寛大なつもりだった。だが、奈央に対してはそうはいかないのだ。どうしてこんな気持になるのか、赤座本人にもわからなかったのだ。  赤座に知られないように男に会っている。尾行にも気を配っている。鏑木でさえ男をつき止められないのだ。それだけ用心しているのも気に入らない。  自分にこんな嫉妬心があるとは思ってもいなかったのだ。自分の嫉妬に自分で驚いている。嫉妬というのはなまなましいものである。そのなまなましさが、まだ自分に残っていたのだ。そのことが意外だった。 「奥さまが、お帰りになりました」  とお手伝が言った。時計を見ると十一時に近くなっている。 「パパ、どうしたの」  と奈央が入って来た。 「男に抱かれて来たか」 「そんなこと、どうして、お友だちとお酒呑んでいたのよ」 「どういう男だ」 「パパ、今日に限っておかしいわ。あたしの男はパパだけよ」  ぬけぬけと嘘を言う。もっとも女の嘘はいやではない。 「男の臭いがするぞ」 「そんなことはないわ、ねえ、千代さん」  とお手伝いを呼んだ。 「お風呂はわいているの」 「はい、いまわかしております。もうお入りになれると思います」 「ねえパパ、お風呂に入りましょう」  うむ、と赤座は唸《うな》った。惚れた弱味なのか、それ以上は追及できなかった。  五章 二 号     1  音代俊行は、部長の椅子に坐っていた。時計を見た。五時になろうとしている。今日は水曜日である。奈央に会う日だった。何となく気が重い。  いつごろから気が重くなったのか、と考えてみる。はじめのころは奈央の体を抱くのがたのしみだった。こういう愛人の一人くらいはいていいはずだ。  会社内で、多くの社員と会う。すると、おまえたちは奈央のような女を愛人に持ったことはないだろう、と上から見下ろすような気持になったものだ。  奈央は、おっ、と思わず目を見張るほど悶《もだ》え歓喜する。女とはこれほどまでに悦ぶものかと思う。四年前、いまは五年前になる。五年前に別れたころには、ふつうの女だった。一度オルガスムに達すれば、それで満足した。つき合いはじめたころにはオルガスムというものを知らなかった。  俊行が求めるからそれに応えるという程度だったのだ。もちろん彼に抱かれることはいやではなかったようだ。愛撫されればそれなりに快感のようなものがあったようだ。  会う度に少しずつ変って来たのだろう。俊行は気付かなかったが、ある時からオルガスムに達するようになった。そして希《まれ》には二度達することもあった。だが、そこまでだった。そのあと奈央は消えてしまった。  ところが四年後に会ったときの奈央は全く違っていたのだ。顔つきだけだってかなり変貌していた。奈央に、音代さんでしょう、と言われたとき、しばらくはわからなかった。  六時には、奈央が待つホテルに行かなければならない。彼女は浴室で体を洗って待っているのだ。ベッドで俊行に抱かれてのたうち回る。彼女が満足するまでには二時間はかかる。三時間になるときもある。  奈央が男に飢えているわけはないのだ。周りに男がいないわけはない。赤座は老人であるが、精力はあるのだろう。他に三人も女がいるのだから。  もっとも中でも奈央を一番寵愛しているという。奈央は俊行を部長にしてあげると言った。いくら愛妾に言われても社員の一人を引き上げるはずはない。会社と女は別なのだ。だが俊行は部長になったのだ。  俊行は部長になるだけの能力はなかった。課長には自分の力でなったと思っている。だが部長になるのは十年早かった。十年経って部長になれていたかどうかはわからない。あるいは部長になるのには二十年近くかかったのかもしれない。  それが部長になったのだ。それは奈央の力である。それだけ赤座が奈央に惚れ込んでいるということだ。赤座はあたしの言うことなら何でも聞いてくれると言っていた。ほんとだったのだ。  考えていることはこういうことではなかった。赤座は週一回、麻生に来る。そして奈央を抱く。彼はとことん奈央の体を満足させているはずだ。彼女は性的には不満はない。充分に足りている。  それなのに奈央は飢えているように俊行を求めるのだ。もちろん体はついでで、心が彼を求めているのだろう。つまり情である。体だけの間はまだいい。だけど情が絡んでくると、ただではすまなくなる。俊行はそれを感じはじめていた。  別れようにも別れられないのだ。別れたいとも言えない。奈央が一言、俊行のことを社長に言えば、とたんに左遷だろう。奈央に部長にしてもらったのだ。部長の辞令が出たときには、それだけでうれしかった。だが、落ちついて考えてみると部長になった裏には奈央の力が働いているのを知った。  すると時間が経つに従って気が重くなるのだ。奈央の体は三十歳で熟れきっていた。熟れきった体をぶっつけてくるのだ。俊行はそれだけでたじたじとなる。  もちろん奈央の体は半透明である。きれいだ。よく練れてもいる。セックスは当然、濃厚になる。奈央を愛していて交われるのだったら、そのあとの疲れも快い疲れになるはずである。だが、いまの俊行はぐったりと疲れる。まだ三十八歳なのに、彼女と別れて帰るときには足がふらつき、坐り込んでしまいたくなることさえある。  それでも、水曜日には奈央のところに行かなければならない。疲れているのは肉体ではなく精神なのだ。もちろん、課長のときに比べれば仕事も忙しくなっている。仕事のストレスもある。  だが、そのストレスが奈央を抱くことによって解消されるわけではなかった。  五時半になった。だが、まだ動き出す気にはならない。女と会うのだから、ほんとうはうきうきとしていなければならないのだ。うきうきとする代りに沈んでしまっている。  ようやく椅子を立ち上った。そして上衣を着て部屋を出る。すでに六時に近かった。六時にはホテルに着けない。会社の前からタクシーを拾った。運転手にホテルの名前を告げた。  奈央の待つ部屋に入ったのは六時二十分だった。 「ごめん、どうしても仕事が切り上げられなくてね」 「いいのよ、あたし待つのは平気よ」 「じゃ、とにかく、シャワーを浴びてくるかな」  と浴室の前で脱ぎはじめる。脱いだものを奈央がハンガーに掛ける。裸になって浴室に入る。タブには湯が張られてあった。タブに入る。湯はぬるめだった。熱い湯を注ぎ込む。  さすがに奈央は入って来なかった。ホテルの浴室は男女がたわむれるようにはできていない。体を洗って、肌を拭う。そして浴室を出ると、浴衣を拡げて奈央が待っていた。背中を向けると肩に掛けてくれる。 「ビール、呑むでしょう」  ああ、と応える。彼女は冷蔵庫からびんビールを出して来て、テーブルの上にコップを置くとビールを注ぐ。ありがとう、と言ってビールを呑む。奈央はそれをじっと見ていた。 「どうした、きみは呑まないのか」 「ええ、今日は呑みたくないの」  何かあるな、と思った。煙草に火をつける。今日の奈央はいやにおとなしいのだ。それが妙に無気味でさえある。  部屋の灯りを小さくしてベッドに入る。抱き寄せておいて乳房をさぐる。乳首はしこっていた。彼女は股間に手をのばして来てペニスを握る。そしてかすかに指を使う。  手をはざまに入れる。そこはすでに熱く潤んでいた。女は思うだけで潤んでくるものなのだ。彼女は俊行を仰臥《ぎようが》させると、股間に顔を埋めて来てペニスを根元まで呑み込む。それはいつものことだった。尖端を咽に押し当てて頭を振る。  俊行は、彼女を四つん這いにさせて尻を抱いた。ペニスはワギナの中に吸い込まれる。声をあげて腰を振る。  さまざまに形を変える。ただ上に重なるだけでは能がないのだ。そして最後に正常位になる。奈央はこらえにこらえていたものを爆発させる。つづけざまに気をやるのだ。その数は数えきれないほどだ。  俊行はたまらずに放出した。それに合わせて奈央もまた悲鳴を放った。彼が何の防備もしなかったのは、彼女が安全日と言ったからだ。そうでないときにはたいていゴムを使っていた。  奈央はベッドを降りてバスに入った。とりあえずは体を洗いたかったのだ。もちろんこれで終ったわけではない。まだ序の口だ。  バスからもどって来て彼のそばに横臥する。 「ねえ、俊行、奥さんと別れてくれない?」  とごく当り前のように言った。彼はエッと声をあげていた。 「そんなこと」 「あたし、できたらしいの」  もう一度、エッ、と言った。ベッドからとび上りそうだった。 「ほんとなのか、できたというのは」 「先月からないのよ」 「社長の子かもしれないじゃないか」  ずっと避妊はしてきたつもりだ。だけど、彼女が安全日と言えば防備はしなかった。ゴムを使わないほうがいいに決っている。彼女の安全日の計算が違っていれば、失敗してもおかしくない。もっとも、俊行は斉木淳のことは知らなかった。 「あなたの子よ、あたしにはわかるの」 「しかし、そんな約束じゃなかった」 「そう、はじめは俊行とは遊びのつもりだった。でも、女の気持って変るのよ」 「そんな、変ってもらっては困るな」 「離婚しなくてもいいわ。あたし、アパートに住む。そしてあなたが会社から帰ってくるのを待つのよ。一週間に二日でいい。それくらいはできるでしょう」 「社長はどうするんだ」 「別れるわ」 「社長が別れてくれるわけはない」 「でも、あたしはそうしたいの」  冗談じゃない、と腹の中で呟いた。麻生の家を出てアパートに住む、と簡単に言う。赤座はけんめいになって探すだろう。探偵や興信所を使って、探し出されたとき、俊行は左遷される。部長の椅子はなくなるのだ。  奈央に与えられた部長の椅子だが、俊行はその椅子にしがみついていたかった。 「それは無理だよ」 「無理じゃないわ。ねえ、あたし、週に二日でガマンする」 「だけど生活はどうするんだ。新潟のお母さんにもお金はいるんだろう」 「なんとかなるわ」 「スポンサーをなくしては、生活していけない。そのために奈央は赤座社長のものになったんだろう。ぼくとは週に一回会っていればいいじゃないか」 「おなかの赤ちゃんはどうするの」 「社長の子供として生めばいい」 「いやよ、第一、赤座にはその能力はないのよ。赤座はあなたとのことを疑うわ」  俊行は体から力が抜けていくのを覚えた。     2  鏑木一行は、麻生の奈央の家を張り込んでいた。双眼鏡を覗き、盗聴器の音を聞く。だが、本命の男は電話をかけて来ないのだ。奈央もまた電話をしない。電話をかけてくるのは斉木淳だけだ。  淳は、西丸三香子という恋人がいるのに、奈央を諦めきれないらしい。淳は電話で、奈央さんが欲しい、抱きたいんだ、と言う。電話だからストレートだ。  彼女は淳に口説かれて仕方なく出ていく。奈央は淳を嫌いではないのだ。もちろん、本命の男が出て来るまでは、赤座の他は淳だけだった。仕事があるわけではない。赤座が来るとき以外は暇なのだ。いまは、淳とは暇つぶしのようだった。他に趣味というものはなさそうだった。趣味でも持てばいいのに、と一行は余計なことを考えてしまう。もともと趣味などない女だったのだろう。  一行は、午後四時になると現場を引き上げる。おそらく奈央は動かないだろう。家の中で何をしているのか。  小田急線の鶴川から電車に乗る。新宿から中央線電車に乗って東京駅に出る。八重洲口の近くのビルの中に税理士の事務所がある。西丸三香子は、その税理士事務所で働いていた。将来は税理士の資格をとるつもりらしい。  事務所が退けるのは五時半である。事務所のドアの見えるところで待つ。一行は、この西丸三香子が気になっていた。彼の本来の仕事とは関係ないことだ。  一行は、奈央の過去を洗うつもりだった。いまの本命の男は、奈央の過去にいた男ではないのか、と考えたのだ。銀座のクラブで赤座に目をつけられている。そのクラブの前は何をしていたのか。どうしてクラブのホステスにならなければならなかったのかは赤座から聞いていた。  だが、いまは西丸三香子に興味があったのだ。彼女は斉木淳を愛している。だが淳は奈央に夢中だ。 「あんな女とは別れてよ」  と三香子は淳に会う度に言う。だが、淳は、 「もう少し待ってくれよ」  と言うだけだ。 「あんな女のどこがいいの。あの女、二号さんでしょう。まともな女じゃないのよ」  淳は若いだけに奈央の体が忘れられないのだ。奈央の体はおそらく中華料理のように油っぽい。それに比べると三香子は、ざるそばのようにあっさりしすぎているのかもしれない。  彼は若いから油っぽいものがいいのだ。中華料理のうまさが忘れられないのだ。もちろん結婚までは考えていない。だけど、遊べるだけは遊んでいたいのだ。  男も女もエゴである。いま淳は奈央に夢中で三香子のことを思いやる余裕はないようだ。三香子に知られないようにこっそりというのではない。淳は三香子に奈央のことを喋っているのだ。だから、三香子は奈央と別れてくれと言う。  はじめは隠していたのかもしれない。それを三香子に追及されて喋ったのか。あるいは三香子は、淳が奈央と会うのを尾行してつきとめたのかもしれない。  淳のことなど、あっさり忘れてしまえばいいのだろうが、彼女にはそれができないのだ。淳も、いずれは中華料理に飽きる。そのときを待っているのか。  三香子が事務所から出て来た。そしてエレベーターに乗る。一行は階段を駆け降りた。一階に降りたとき、ちょうどエレベーターの戸が開かれて人が吐き出されるところだった。  ビルを出て東京駅のほうに歩いていく。一行はそれを追う。後ろ姿もいい女だった。プロポーションもいいし、尻の位置も高い。すれ違う女たちと比べても抜群だ。足も長いし形もいい。美人の中に入るだろう。だが、奈央に夢中になっている淳には三香子のよさが見えないのだろう。  あるいは、淳は、三香子は自分から絶対に離れないと知って奈央の体に酔っているのか。奈央にしても、本命の男ができたのなら、淳と別れてやればいいではないか。淳から電話がかかって来たとき、はっきり断わってやればいい。すると淳は三香子のところにもどっていく。それなのに奈央は淳に口説かれて、仕方なさそうに外出する。奈央が暇すぎるのがよくないようだ。  三香子は東京駅から中央線電車に乗った。快速である。新宿駅で降りる。西口の喫茶店に入った。一行はすぐあとから入る。  その喫茶店には若い男が待っていた。淳という恋人がいるのに三香子は別の男と会っている。彼女と同じような齢だろう。一行は三香子に背を向けて坐った。 「三香子、あんな男とは手を切れよ。おメカケさんに夢中だと言うじゃないか」  斉木淳のことを知っているらしい。また妙な男が現われたものだ。 「どうしてあんな男が好きなんだ。三香子があんな男に惚れるなんて腹が立つよ」 「愛しているんだもの、仕方ないでしょう」 「あいつは三香子を裏切っているんだよ。たとえ愛していても、醒《さ》めちゃうと思うんだけどな」 「駄目よ、諦めきれないわ」 「あんな男のどこがいいのかな。おメカケさんに夢中になるような男だよ。忘れっちまえよ」 「そんなこと言うんだったら、あたし帰る」 「まあ、待ってくれよ。ぼくの気持、知っているだろう。三香子はぼくと一緒になったほうが倖せになれると思うけどな。倖せにしてみせるよ」 「あたし、倖せなんていらないの」 「えっ、人生の目的は倖せではないのか」 「不倖せでもいいの」 「そんなに斉木を愛しているということなのか」 「そうよ、だから、芦田《あしだ》くんの入り込む余地はないのよ」 「ショックだな、ぼくは三香子を愛しているのに」 「女なんて、いっぱいいるじゃない」 「そういうものじゃないだろう。ぼくには三香子しかいないんだよ」 「ごめんなさい、あたしのことなんか忘れてよ」 「忘れられれば苦労はないよ。これでも悩んでいるんだぜ。とにかく、酒くらいつき合ってくれてもいいんじゃないかな」 「それも、ごめんなさい。今日は家に帰らなければならないの」  と言って三香子は立ち上った。芦田と呼ばれた男は、後を追おうとして止め、椅子に坐り直した。 「振られたね」  と一行は振りむいて声をかけた。 「なんだい、あんたは」 「酒の相手なら、おれがしてやってもいいんだけどね」 「よけいなお世話だよ」  一行は名刺をさし出した。 「調査員?」  と芦田は名刺を見て言った。 「何の調査をしているんだ」 「結婚調査さ」 「え? 三香子の」 「そういうこと」 「なんで三香子の調査をするんだ」 「だから、結婚だよ、西丸三香子のね」 「すると、もう一人ライバルがいるということ?」 「そういうことになるかもしれんね。少しつき合ってくれないかな」 「いやだとは言えないようだね」  喫茶店を出て近くの焼鳥屋に入った。芦田はハイサワーを頼み、一行は日本酒である。男は、芦田|哲夫《てつお》、ある商社に勤めている。三香子とは大学が一緒だったという。 「調査を頼んだのは誰?」 「それは言えないね。もっとも三香子さんはまだこのことを知らない。彼女を調査してから相手はプロポーズするらしいから」 「いやになったな」 「彼女はライバルが何人かいてもおかしくないな」 「オジさん、ひどいこと言うね。ぼくは本気だぜ」 「待っていれば何とかなるかもしれない。おれだって、彼女は斉木淳という男とは別れたほうがいいと思っている」 「オジさんは、斉木のことも知っているわけだ」 「知っているさ、調査員だからな」 「斉木ってやつも、いいかげんな男だ。人のメカケに夢中になって、それでいて三香子ともつき合っているんだからな」 「そのことを報告書に書けば、結婚話はこわれるね。それにきみのこともある」 「おい、オジさん、ぼくは三香子とは何もないんだ。手も握ったことはない。ほんとは三香子を抱きたいんだ。彼女が斉木に抱かれているのかと思うと、ぼくは気が狂いそうになるんだ」 「彼女はいい体しているからな。おれだって裸にしてみたいよ」 「オジさん、それはないよ。あんたには関係ないことだ」 「おれにだって彼女を口説く資格はある。男だからな。案外、おれみたいな男が好みだったりしてね」  と一行は笑った。芦田は眉をひそめた。     3  音代俊行は、部長の椅子に坐っていた。もちろん課長の椅子とは大違いである。この第二営業部では一番えらいのだ。課長の椅子など小さく見える。いまでは課長も呼べるのだ。もちろん課長は年上である。さんづけで呼ぶことになる。  女子社員が書類を持って来る。それに目を通して印を押す。坐り心地はいいが安定してはいなかった。 「はじめの約束と違う」  と呟く。  はじめに妻と離婚してくれ、と言った。それが無理だと知ると、アパートに住んだら二日だけ来てくれ、と言った。  妊娠していると言い、生むと言う。避妊は少しいいかげんだった。安全日だと言われれば、それを信じて非武装のまま交わった。あるいは危険日だったのに、彼女は安全日と言った。あるいは妊娠は彼女の計画だったのかもしれない。  アパートで赤ン坊に乳をのませて、自分を待っている奈央を思い描いてぞっとする。それでは話が違う。そんなはずではなかった。ただ、遊ぶだけだったはずだ。赤座に抱かれて汚れた体を俊行が清めてやる、というだけのつもりだった。  女の気持は変るものよ、と言った。たしかに変るものだろう。だけど俊行は最初の言葉を信じていた。  奈央の要求を充してやった。そのお礼に部長にしてくれたのだと思っていた。だが、そうではなかった。奈央は部長になったために俊行は自分とは別れられないのだと思った。  たしかに俊行も、部長にしてくれたんだから自分から別れ話は持ち出せない。部長にしてもらったお礼に、奈央を抱いてやるのだと思っていたのだ。  こうなるくらいだったら、課長のままのほうがよかったのかもしれない。いや、やはり俊行は部長になりたかった。出世こそが彼にはすべてだったのだ。  これからどうすればいいのか、堕胎しろと言っても、奈央は生むと言うだろう。生ませてはならないのだ。第一、自分の子かどうかもわからない。もちろん、それを言えば彼女は怒る。  赤座には、女を妊娠させる能力はないという。もちろん、医学的なことはわからない。ほんとに能力がないのか。それとは別にして奈央に自分より他に男はいないのか。  五年前はいざ知らず、老人の女になるような奈央だ。他に男がいたのかもしれない。もしかしたら、その男の子供かもしれない。  誰のタネかもわからない子を押しつけられてはかなわない。奈央は俊行の子だと思っている。すると生まれ出れば、自分の子でなくても何らかの責任を負わされることになる。認知しろと言い出すかもしれない。言い出すかもしれないではなく、そう求めるだろう。  もっとも生まれ出れば誰の子かはわかるわけだが。どっちにしろ、何とかしなければならないのだ。  電話のベルが鳴った。 「はい、第二営業部」 「あたしです」  と言った。奈央だった。 「電話しないと言ったじゃないか」 「ごめんなさい、急用なの。新潟の病院から母が危篤《きとく》だと言って来たの。だから、あたしこれから新潟へ行って来ます。残念だけど、今夜は会えないの」 「そう、わかった。お母さん、持ち直すといいね」 「来週は大丈夫だと思うわ、それじゃね」  と電話は切れた。受話器を置いて、ぼんやりとなる。そう言えば今日は水曜日だった。水曜日であることを忘れようとしていたのだ。とにかく今夜は会わなくてよくなった。何となくホッとする。  それだけだろうか。母親が危篤だという。母親が死んでしまったら? 奈央は母親が入院したために金が必要になり、水商売に入り赤座の妾になったのだ。その母が死んでしまえば、赤座の妾でいる必要はなくなる。  俊行にとって状況はますます悪くなる。奈央は、俊行にますますのめり込んでくることになるだろう。赤座のもとを離れてアパートに住む。するとその面倒まで俊行が見ることになるのかもしれない。 「こういうとき、どういう解決法があるのか」  奈央が事故死か、失踪してくれれば、俊行は助かることになる。だが、そううまく事故が起ってくれるわけはない。  新幹線が衝突事故を起せば乗客の七割は死ぬといわれている。もちろん、新幹線がそんな事故を起すことはない。  これから奈央は上越新幹線に乗ることになるのだ。母親が亡くなれば、葬式やら何やらで、何日間かは帰って来ないことになる。  俊行は、五時半に会社を出た。今日は水曜日だから、残業も接待もない。水曜以外の日は忙しくて帰宅するのは十時か十一時だ。部長なのだから忙しいのは当然だ。  水道橋へ向って歩く。奈央に会わないでよくなって、ぽっかり穴が開いたような気がした。  前を歩いている女の子を見た。 「原田くん」  と声をかけた。女の子は振りむいた。 「あ、部長」 「これから何か用があるのかな」 「いいえ、家に帰るだけです」 「恋人はいないのかな」 「残念ながら」 「いけないね、恋人もいないんじゃ、もう二十五かな」 「いいえ、まだ二十四です」 「どうだろう、少し酒でもつき合ってくれないかな」 「あたしなんかでいいんですか」 「きみでちょうどいいかもしれないな。このところ疲れているのでね」 「あたしでちょうどいいんですか」 「言い方が失礼だったかな」 「でも、部長には、他に女の人がいらっしゃるんでしょう」 「ということは、女房以外にということかな」 「ええ、部長はおもてになると思います」 「そんなにもてるわけはないじゃないか。第一遊んでいる時間がない」 「時間とは作るものだと聞いていますが」  その通りだ。奈央と会う時間だけは作っている。  原田久美子と一緒に電車に乗った。そして新宿で降りる。新宿には時々呑みに行く料理屋があった。ビルの三階にある料理屋で『はつもみじ』という。接待では使わないが、仲間などと呑みに来る。  広い座敷でテーブルが並んでいる。テーブルを衝立で仕切るようになっている。久美子とはテーブルに向い合って坐った。 「あたし、こんなお店はじめて」 「というほどの店ではない。きみは刺身は食えるの」 「はい、大好きです」  刺身の盛り合わせを頼んだ。二人ともウヰスキーの水割りにした。仲居さんが水割りを作ってくれる。グラスを合わせた。 「あたし、部長さんに誘っていただけるとは思ってもいませんでした」  久美子に興味があって誘ったのではなかった。何となく一人で考え込むのがこわかったのだ。この場を何としてでも切り抜けなければならないのだ。部長の椅子はそのままでだ。部長の椅子を降りるわけにはいかない。 「二十四歳にもなって、恋人がいないってことはないだろう。きみのような可愛い女の子が」 「あたしって可愛いですか」 「ぼくから見れば、可愛いね。プロポーションだっていいし」 「やはり、男の人は女の体を見るんですね」 「少し違うだろうね。男だって女だって、体のバランスは取れていなければならない。ちぐはぐだと、それだけで魅力がないんだ。きみのお尻は格好よかった。やはり、女の体を見るのかな」 「部長さんにホメられて光栄です。あたしって魅力あります?」 「魅力ない女性は誘わないよ。うちの課にきみのような女の子がいるとは思わなかった。もっとも顔は毎日見ていたんだろうけどね」 「女としては見えなかったんですね」 「そうだろうね。ふと女に見えることがあるんだ」 「よかった、今日は部長にはあたしが女に見えたんですね」 「恋人はいたんだろう」 「いました。でも食い足りないので別れました。だって頭の中がからっぽで、男であることだけを主張するんですもの。女って一体何だろう、って考え込んでしまったんです。ただの欲望の対象でしかないんです。そんな男とつき合ってはいられません」  何とかしたい、何とかしなければ、と思っている。もしかしたらいまがチャンスかもしれないと。 「それが男というものだよ」 「部長もそうなんですか」 「そうかもしれないね、きみを抱きたくて誘ったのかもしれない。男っていうのは、どこかで悪党なんだよ。勤勉実直ではあり得ない。どこかに欲望を秘めているものだ」 「悪党大好き。でも、部長は悪党になれるんですか」 「時と場合によるね」 「今日はその時と場合ではないんですか」  久美子はその気になっているようだ。誘ったのはいけなかったのか。  この久美子のことなんかどうだっていい。奈央をなんとかしたい。もしかしたらこれが人生の別れ目かもしれない。このまま何もしなければ、奈央は赤座の家をとび出すだろう。そしてアパートを借りて、そこで子供を生む。そのあとは見えているような気がする。  奈央から逃げたいと思っても、逃げられない。逃げれば何もかも失ってしまうのだ。逃げだして人生をやり直すか。転職する。それは可能だろうが、停年まで部長の椅子は回って来ない。課長にもなれないかもしれない。もっともまだ三十代だ。何とかなるかもしれない。だが、やはり部長の椅子は捨てられそうにない。だったらどうすればいいのか。  一年と数ヵ月前、出版記念パーティで奈央と会わなければよかった。だけど会わなければ部長の椅子は十数年後だった。 「あたし、今夜、帰りたくない」 「えっ」 「嘘、冗談よ、ただ、そう言ってみたかっただけ」  久美子はいくらか酔っていた。それではしゃいでいる。  妙な酔い方をした。自分の態度をはっきり決めなければならなかった。だけどどうしてもふんぎりがつかないのだ。行動を起こすには勇気がいる。 「わが人生の別れ道」  と歌ってみた。  ふと気がついたら、久美子と一緒にラブホテルに来ていた。まるで酔いつぶれたみたいなことを言う。もちろん、それほどには酔っていなかった。いつもと酔い方が違っていただけなのだ。  久美子は自分で浴槽に湯を注ぎに行った。こういうところに馴れているのか。 「あたし、悔やまないわ」  と彼女は言った。 「きみははじめてではないだろうね」 「もし、はじめてだったら、どうなさるんですか」 「すぐに、逃げて帰るよ」 「悪党、でも、あたし悪党大好き」  と俊行に抱きついて来た。     4  斉木淳は、西丸三香子と大衆酒場で酒を呑んでいた。二人ともハイサワーである。これが安くて気持よく酔えるのだ。 「彼女は、お母さんが危篤というので新潟に帰ったんだ。このところ彼女は様子がおかしい。ときにはぼくの誘いを断わる。以前はこうではなかったんだけどな。あいつ、新しい男ができたんだな。聞いてみても、そんなことはないって、もちろん男ができても言うわけないよね」  淳は、三香子に奈央のことをみんな喋る。それを彼女は黙って聞いているのだ。 「嫌いだったら淳とは会わないはずよ」 「ぼくは、その男を探しているんだ。その男に関してだけは、隙《すき》を見せないんだ」  ハイサワーを呑む。そしてマイルドセブンに火をつける。 「おそらく、その男を愛しているんだな。むかし好きな人がいた、と言っていた。もしかしたら、そのむかしの男と会ったとも考えられる。そして焼け棒杭に火がついたってことかな」 「探し出したって、彼女がその男を好きだったら、どうにもならないんじゃないの」 「そうだよな、その男をみつけて文句を言ったってはじまらないな」 「だから、と言って忘れることはできないんでしょう」 「おれは病気なんだ。三香子はどうして、おれから離れないんだ」 「愛しているからよ」 「おれみたいな男は捨ててしまえばいいんだ」 「そうよ、捨ててしまいたいの。だけど、それができないの」 「芦田哲夫って男がいたな」 「ええ、いまでも電話かけてくるわ。あたしの心の中には淳がいる、と言ってもわからないのね」 「おれよりも、あいつのほうがましかもしれないよ」 「いやよ、そんなの。あたしにもよくわからないのよ、どうして淳がこんなに好きなのか。淳だって、あたしを嫌いなわけではないでしょう」 「好きだよ、愛しているよ。だけど、あの女のことは別なんだ。おれは自分でも病気だと思っている」 「淳は、女郎|蜘蛛《ぐも》の巣に引っかかったの。あの女は女郎蜘蛛よ」 「蜘蛛の巣に引っかかった憐《あわ》れな蝶か。そうかもしれんな。忘れよう、諦めようと思っても無理なんだな。おれが弱いのかもしれんけど」 「あたしも、どうしてこんな淳を愛してしまったのかしら。自分でもわからない。あの女のことを許せなければ、とうに淳とは別れているわ。だけど、淳とあの女のことはどこかで許せるのよね、だからこうして淳といられるんじゃないかしら」 「おれなんか、捨てちゃえばいいのに」 「そんなにすねないで」 「いかんな、おれは、まるで駄々っ子だ。自分でブレーキがかけられないんだ。自分でも何とかしなければと思っているんだ。何とかなるまで待っていてくれるのかな」 「ええ、待っているわ。蜘蛛の巣から抜けられるまで」 「悪いな」 「そんなことないわ。ほんといえば、あたしもどうにもならないのよ。淳のこと思うと。ふつうの女なら、とうに淳とは別れているわね。他にも男はたくさんいるんだから」 「そうだよ」 「でも、駄目なの。淳と同じ病気かもしれないわ」 「同病相憐む、か」  ハイサワーを呑むと、行こうか、と言って立ち上った。ええ、と言って三香子も立つ。店を出ると、彼女が淳の腕に腕を巻きつけて来た。二人は歌舞伎町の裏に向う。そして、ごく当然のようにラブホテルに入った。二人で酒を呑めばラブホテルに行く。これはコースの一部分だったのだ。  部屋に入ると、三香子が浴室の湯槽に湯を注ぐ。シティホテルよりもやはりラブホテルのほうが空間が広くてよかった。ラブホテルは男と女が愛し合うための部屋である。眠るための部屋ではないのだ。  淳が先に風呂に入った。体を流して湯舟に入る。そこで三香子が裸になって入ってくる。これもコースの一つであるかのように。もちろん、胸からタオルを垂らしていた。体を流して、湯舟に入ってくる。湯が音をたててこぼれた。  いつのころからか、奈央は一緒にバスに入ることを拒んだ。もっともバスタブは二人で入るようにはなっていない。ラブホテルの風呂は狭いけど、二人一緒に入れる大きさはある。  奈央とも、はじめのうちはラブホテルだった。そのころは奈央も自分から抱きついて来て淳を求めた。激しかった。二人とも裸になってもつれ合った。  いまはそういうことはない。浴衣は着たままだし、むかしの激しさはなくなっている。それでも、淳は奈央が忘れられないのだ。もっとも奈央に会う気がなければ、いかに淳が恋しがってもどうにもならない。だけど、電話で会いたい、抱きたいと懇願すれば、仕方なくでも出て来てくれるのだ。  もしかしたら、いつか、全く相手にされなくなる日が来ると思っている。奈央が相手にしてくれなければ、そこで終りだ。あるいは淳はその日を待っているのかもしれない。  淳が湯から上る。そのあとから上って三香子が淳の背中を流す。黙って洗わせておけば、前から足のほうまで洗ってくれる。 「いい体しているのに」 「だからどうなの」 「あの女とは別れられない」 「あの女のほうが、あたしよりいい体しているんでしょう」 「かもしれないな」  彼の体から泡を洗い流す。今度は淳が三香子を洗う番だった。体に泡を塗りつける。乳房も泡にまみれ、股間も泡でいっぱいだ。乳房に手が滑る。指で乳首を摘み洗う。彼女が、アーッ、と声をあげた。股間に手がのび、泡の中に埋まる。     5  鏑木一行は、マンションの部屋にいた。久しぶりにのんびりできた。今日は麻生に行かなくていいのだ。奈央は麻生にはいない。新潟に行っている。  新潟までついて行こうと思ったが、止めた。母親が危篤というだけだ。男が一緒について行くわけではないだろう。まさか、男を連れて行って楽しむということはない。奈央はそれどころではないはずだ。  奈央は、母親が病気になったため赤座の女になった。病気にならなければ、ふつうの女でいられた。  ここで母親がなくなる。すると奈央はどうなるのか。母の面倒はみなくてよくなった。と言って、もとにもどれるわけはないのだ。奈央自身が変ってしまっている。体も変ってしまっているのだ。  もっとも赤座は面倒見のいい男だ。自分の女だった者たちには、ちゃんと生活ができるようにしてやっている。社員と一緒にしてやったり、もちろん奈央の一生の面倒をみてやるつもりなのだろう。  だが、まともな男と結婚してもうまくいくとは限らない。体がふつうではなくなっているのだから。もっとも女の心掛け次第だろうが。  一行は、東景ハウスに電話を入れた。赤座社長は来てくれという。一行は仕度をしてマンションを出た。いい天気である。秋晴れでさわやかだった。今年はあまりさわやかな日がない。  電車に乗り代々木で乗り換える。そして水道橋で降りた。赤座ビルに入る。受付には落合暢子がいた。目が合って彼女は笑った。もう一人の女が社長室に電話を入れる。 「どうぞ、社長室に」  と言った。一行はエレベーターで上る。社長室のドアをノックした。社長室に入った。赤座は電話をしていた。女秘書が、ソファで少しお待ち下さい、と言った。秘書の足がきれいだ。足はやはり美人の条件である。秘書がお茶を淹《い》れて来た。  赤座が、電話を終えて立ってくる。 「ご苦労さんだね」 「仕事ですから」 「それで、何かあったのかね」 「昨日の奈央さんの電話です」 「どこかに電話したのかね」 「昨日は水曜日でした」 「なるほど、水曜日だったな」 「彼女は水曜日の男に電話したようです。母親の病気で会えない。やはり電話しておきたかったのでしょう」 「前おきはいい、誰だったのかね」 「名前は言いません。でも、相手は第二営業部と言いました。もちろん、どこの会社かもわかりません」 「ふむっ」  と赤座は唸《うな》った。 「思い当ることがありますか」 「鏑木くん、調査はもういい。これでおしまいにしよう。ご苦労さんだった」  赤座は何か思い当ったらしい。だが、一行は、それを誰かとは聞けなかった。 「長い間、ご苦労だった。執念深くやってくれた」  赤座はソファを立った。そして封筒に入ったものを持って来て、テーブルの上に置いた。 「これは、わしのボーナスだ。東郷警備のほうはちゃんとする」  おそらく封筒の厚さからして十万円だろう。 「そうですか。長い間お世話になりました」  と立って頭を下げた。あっさりと仕事は終った。急に放り出されたような気がした。終ったが、麻生の家に仕掛けた盗聴器は外さなければならないだろう。それを一行がすることはない。  もう一度、社長室にもどった。そして盗聴器を外しておいてくれるように頼んだ。ビルを出るときに暢子の顔を見た。笑っている。もしかしたら可能性があるのではないかと考えた。  電話ボックスをみつけて、東景ハウスに電話した。 「落合さん、お願いします」 「わたしですけど」 「鏑木です。今日、六時半に、先日酒を呑んだ店で待っています」  と言い返事を待たずに電話を切った。来なくてもいい、おそらく来ないだろう。それでも、もう一度賭けてみたかったのだ。  一行は渋谷の本社に行った。そして藤崎部長に、調査が終了したことを報告した。 「いま、赤座社長から連絡があった。終了ということは浮気の相手がわかったんだな」 「ぼくにはわかりません。でも赤座さんにはわかったようです」 「第二営業部か」 「赤座さんにわかって、ぼくにわからないというのは不都合です」 「それでいいんだよ。依頼人が納得してくれれば、われわれの仕事は終ったことになる」 「その男が何者か、知りたかったですね」 「知らないでいいことは知らないほうがいい」 「第二営業部とは、東景ハウスの第二営業部ですかね」 「まあ、ふつうに考えてみて、そうだろうね。他社の第二営業部なんて考えられんな」 「そうですね」 「まあ、しばらく遊んでいてくれ、といっても遊ぶ暇はないかもしれんな。ポケベルで呼び出すことになる」 「わかりました」  と部長室を出る。一行には事務的な仕事はない。もっとも調査報告書を書くくらいのことはするが、今回はその仕事もなかった。  一行は、その男をつき止めたかった。奈央が惚れ込んだ男だ。どんな二枚目野郎かと思う。一行は、六時半までパチンコで時間をつぶした。  玉を弾《はじ》いても、奈央の男が気になった。同じ会社の社員が、社長の女に手を出したのか、本来、サラリーマンはそんなことはできないはずだ。そんなことをしたら職を失うことになる。そんな大胆な男なのか。  そうではない。おそらく奈央が誘ったのだ。奈央もまた、パトロンの会社の社員に手を出すなんてことをしなくても、男が欲しければいくらでもいる。  奈央の過去を調べはじめたところだった。過去には何人か男がいたのだろう。その中の一人と偶然に出会った。そしてその男が偶然に東景ハウスの社員だった。偶然が二つ続いた。二つまでは偶然と認められる。三つ偶然が重なれば偶然でないという。  約束の時間より早く、料理屋に行った。先日はこの店で暢子と呑んだのだ。一行は日本酒をとった。ちびりちびりと呑みはじめる。暢子が来る確率は四○パーセントくらいかなと思う。時計を見た。ちょうど六時半になるところだった。 「来ないだろうな」  と思う。チャンスは二度もないのだ。一度のチャンスをものにしなければならないのだ。それを知っていながら逃してしまった。おれとしたことがと苦笑する。  六時四十分になった。まだ現われない。溜息をついた。五十分になって暢子は姿を見せた。照れ笑いしながら歩み寄ってくる。そして一行の前に坐った。 「いつまで待つつもりだったんですか」 「この店が閉るまで」 「ほんとにあたしが来ると思ったんですか」 「まあね、来ないかもしれないとは思ったけどね」 「いつも、女を誘うときにはあんな電話のかけ方をするんですか、あたしの返事を聞かずに電話を切ってしまうなんて」 「電話で断わられるのがいやだったのでね。それなら三時間、四時間待ったほうがいいんだ」 「あたしの知っている男なんか、女を待つ限度は十五分だと言っているわ」  暢子はハイサワーを頼んだ。 「どんなに好きな女でも、十五分以上遅れて来たら帰るって」 「それだけの自信があるのだろうな」 「あたし、来ないつもりだったのよ」 「だけど来た。それでいいんだよ」 「図々しいのね」 「なあに、これでもけっこうデリケートなんだよ」 「ウソ!」 「ところで、第二営業部って知っている?」 「知っているわ」 「最近、ここ一年くらいでもいいんだけど、何か変ったことなかった?」 「何か変ったことって?」 「第二営業部に二枚目いるかな」  奈央の過去の中にいる男だったら、おそらく年上だろう。むかし、恋人だった男ということになるのか。サラリーマンは臆病である。自分からは社長の女には手は出さないだろう。 「第二営業部ね、課長が部長になったわ。まだ三十代のはずよ。それが部長になるなんて、社内でもかなり噂になったわ。三十代で部長になるなんて、わが社では前例がないって。かなり仕事はできる人らしいけど」 「その人の名は?」 「音代俊行。そうね、かなり二枚目ね。いい男よ。あたしなんか誘われたら、すぐその気になってしまうんじゃないかな」 「音代俊行か」  おそらく、この音代が本命だろう。課長から部長になるには、間に部次長という席がある。次長をとび越えたわけだ。どうして二段階も特進したのか。  言うまでもないだろう。奈央が動いている。赤座社長は奈央に首ったけだ。奈央の言うことなら何でも聞く。  赤座は、第二営業部と聞いてピンと来たのだ。奈央の男が音代俊行と知った。だから、もう調査は止めてくれと言ったのだ。  赤座は奈央から、音代を部長にしてくれと頼まれた。それで音代を調べてみた。なかなか能力のある男だ。それで部長にした。重役会議なども押し切った。  もちろん奈央は自分の男と言ったわけではない。むかし恩になった人の息子だとか、そんな言い方をしているのに違いない。  音代俊行か、一度会ってみたいな、と思う。 「ねえ、あたしを口説かないで。恋人がいるのよ」  と暢子は言った。腹の中は逆なのだ。口説いて、と言っているのだ。 「なあに、その恋人にバレなければいいんだろう。そう簡単にバレるものじゃないんだ」 「でも」  奈央の男のことはなかなかわからなかった。母親が危篤というアクシデントで、やっと姿を見せたのだ。  ポケットベルが鳴った。あと何日間かは暇だったはずだ。一行は店内の赤電話に立った。そして藤崎部長に電話した。 「鏑木ですが」 「いま、赤座社長から電話があった。上越新幹線の中で、帖佐奈央が殺されたそうだ」 「なんですって」 「社長は調査を続けてくれ、と言っている」 「そう、殺されたんですか。上越新幹線だと上野西署ですね。わかりました。すぐ西署に行ってみます」  と言って電話を切った。だが、すぐに上野西署に行く気はなかった。二度目のチャンスを逃したくなかった。 「お仕事なの」  と暢子が言った。すでに抱かれる気になっているはずだ。 「いや、急ぎじゃない。明日からでいいんだ」  と言って笑った。  六章 容 疑     1  上越新幹線『あさひ三二○号』は新潟を十五時五十六分に発車する。上野到着は十七時五十二分である。  列車は上野駅に到着した。乗客がぞろぞろと降りていく。中野車掌は、空《から》になった車内を見回る。十一号車の客席を通る。トイレ、洗面所は奇数車輛にある。十一号車のつき当りはトイレ洗面所である。トイレの前を通りすぎようとして、足を止めた。トイレの一つが使用中の表示になっている。  まだ、客がいるのか。こういうことがないわけではない。下痢でトイレを出られないとか、トイレの中で病気の発作が出たとか。  中野車掌は、ドアをノックした。 「お客さん、どうかなさいましたか」  だが、中からは返事がない。中野はいま一度ノックして同じことを言った。やはり同じである。彼はキーをさし込んでひねった。落し錠が上った。  ドアを開いて、うっ、と息をのんだ。床に女が坐り込んでいたのだ。それに右腹にはナイフの柄みたいなものがつっ立っていて、その周辺が赤黒く染まっていた。  中野はトイレの中に入り、女の肩を掴んでゆすってみた。だが反応はない。彼は走り出していた。  ホームに降りると、近くにいた駅員に、 「人が殺されている!」  と叫んだ。えっと駅員が振りむく。 「十一号車のトイレの中だ」  駅員は走った。二、三分して四、五人が走って来る。車掌と駅員と助役である。 「いま、上野西署に知らせた」  と助役が言った。この車輛は移動しなければならない。だが、列車から死体を降すわけにはいかないのだ。 「二ヵ月前にも、女の人が殺されていますね、そのときも十一号車だったと思いますよ」  駅員が言った。 「困るんだよね、こういうことは」  と助役が言った。文句を言う所がないのだ。あるとすれば犯人に言うしかない。  上野西署から、芳原、井上、辻の三人の刑事が駆けつけた。それに鑑識課員が乗り込むと列車は移動した。車内には中野車掌が残った。  死体はトイレから運び出され、鑑識がトイレの中に入る。  ナイフは被害者の右腹に突き刺さっていた。朝永真弓のときと同じである。三人の刑事はいま捜査中の事件を思っていた。  朝永真弓はトイレから、体を半分外に出していた。今度の被害者はトイレの中に坐り込んでいた。トイレから出ようとするところを刺された。そしてショックで坐り込んだ。  ドアはロックされていた。一応は密室である。刺された本人がロックするわけはない。ロックする気力があればトイレを出ようとするし、助けを求めようとするだろう。  トイレが密室だとすると、死者は自殺になるのか。そんなわけはない。トイレの中でナイフで自分の腹を刺すなんてことをするわけがないのだ。事故であるわけもない。殺人である。 「外からロックすることはできるんですよ」  と中野車掌が言った。どう外からロックするかを中野は説明した。ビニール紐一本あればいい。列車のドアはみんな掛け金になっている。その掛け金に紐を掛けておいて、その紐を外に出しておいてドアを閉める。そして紐を引っぱり下げると掛け金は下る。そこで紐を引き抜けばいいのだ。  ためしにやってみたいが、ビニール紐がなかった。もちろん、犯人は密室にするつもりではなく、発見の時間を遅らせるのが目的だったのだ。  トイレの中にハンドバッグが落ちていた。だが、バッグの中にも身元を確認するものはなかった。  辻刑事が、どこかで見たような女だな、と呟いた。芳原も井上も死者の顔を覗き込んだ。たしかにどこかで見た女だが、思い出せない。死体は担架に乗せられて運び出される。解剖のために大塚の鑑察医務院に運ばれる。  三人の刑事は上野西署にもどった。そこには財津主任が待っていた。 「どうだった?」 「前の朝永真弓のときと同じですね」 「思い出しました」  と辻刑事が声をあげた。 「あの女は、朝永真弓のときの第一発見者ですよ」  芳原も井上もそれで思い出した。人の顔というのは立っているときと寝ているときとは違う。生きているときと死んだときとは違う。 「帖佐奈央!」  井上が言った。  確認のために、帖佐の住まいに連絡が取られた。お手伝いが、 「奥さまは新潟に行っておられます」  と言った。帖佐奈央に間違いなかった。  朝永真弓のほうは捜査が難航していた。容疑者は二人いる。だが、二人のどちらかを犯人とするには決め手がなかった。まだ捜査員たちは歩きまわっている。 「どうして二人は同じような殺され方をしたんですかね」  列車は違うが同じ上越新幹線のトイレ。ナイフで右腹を刺されている。つまり肝臓を狙われているわけだ。朝永と帖佐は年齢も似ている。体型も服装も似ていたと言える。  まず考えることは、朝永と帖佐にどのような関連性があるのか。帖佐は朝永が殺されたときの第一発見者だった。捜査本部では朝永の周辺を洗ったが、帖佐は出て来なかった。  接点があるとすれば、朝永が殺されたときの第一発見者ということだけである。  一時間ほどして、老人が現われた。名刺には『東景ハウス 取締役社長 赤座昌也』とあった。  死体はまだ解剖からもどっていなかった。それで財津主任が事情を聞くことになった。赤座社長は、 「わしが世話している女です」  と言った。つまり二号である。このことは前回に帖佐の事情を聞いたときにわかっていた。 「奈央は、母親が危篤と知らせを受けて新潟に行きました」  母親の容態が落ちついたので、東京に帰るという電話があった、と赤座は言った。 「どうして新幹線の中で殺されたんでしょうね」  と財津が言った。赤座は、さあ、と頭を傾けた。 「何か思い当ることはありませんか」  もちろん、赤座は朝永真弓が殺されたことは知らない。 「帖佐さんが、新潟に行かれる前に、何か変ったことはありませんでしたか」 「と言われてもね」 「殺人以外には考えられないんですよ。誰かに恨まれていたとか」 「そんなことはなかった、と思いますが」  赤座は電話でお手伝いを呼んだ。会社から社員を二人呼んだ。解剖から死体がもどって来たら、麻生の家まで運ばなければならない。その手伝いも兼ねてである。  奈央には身内としては入院している母親だけだ。親戚とはあまりつき合いがなかったらしい。奈央の始末は赤座がしてやらなければならないのだ。  死体が解剖からもどって来た。赤座とお手伝が帖佐奈央であることを確認した。  財津は、お手伝いを呼んで、事情を聞いた。 「奥さまのことはよくわかりません。ですがときどき斉木という男から電話がかかっていました。奥さまは、その度にお出かけでした。それに、その男とは別に、お出かけになることがありました。電話もかからないし、奥さまも電話はなさいませんでした。電話ではなく、どこかで連絡をとられていたんだと思います。それはいつも水曜日でした」 「水曜日の男ですか」  赤座社長が言った。 「奈央のことは、東郷警備の調査員、鏑木一行という男に調査させていました。鏑木にお聞きになれば、何かわかると思いますが」 「東郷警備ですね」 「水曜日の男というのは」 「わしは知らん」  と赤座はそっぽを向いた。     2  十二月十五日、土曜日——。  上野西署の捜査本部で、捜査会議が開かれた。『上越新幹線殺人事件捜査本部』は連続殺人事件と書き直された。つまり�連続�の文字が加えられたのである。  帖佐奈央の事件を芳原刑事が説明した。帖佐奈央の腹に刺さっていたのは、同種のナイフだった。刃渡一○センチの登山ナイフ。東京の金物屋で売っているものである。朝永真弓の腹に刺さっていたナイフの出所も捜査されている。ナイフから足がつくとは思えないのだが。  その他の証拠はとぼしかった。  死亡推定時刻は、新幹線が新潟を発車してから上野に着くまでの二時間とされた。新潟か上野で死体をトイレに運び込んだのでなければ、列車が走行中に殺されたのだということになる。 『あさひ三二○号』は、新潟を十五時五十六分に発車し、十七時五十二分に上野に着く。『あさひ三二○号』は、新潟を発車して、長岡、高崎、大宮の三駅に停り上野に着く。帖佐はどのあたりで殺されたのかはわからない。前の朝永真弓のときは、もう一人の第一発見者が医師であったために死亡時刻ははっきりしていた。 「主任!」  と辻刑事が手をあげた。 「辻くん、何だね」 「ぼくは昨日から考えていたんですが、朝永真弓は間違いで殺されたのではないかと思います。犯人は帖佐奈央を殺したかったんじゃないでしょうか」  うむ、と財津主任は唸った。 「あり得ることだな」 「『あさひ三○八号』に乗っていた帖佐奈央がトイレに立つ。犯人は帖佐を追って席を立つ。そしてトイレに向う。トイレは二つ並んでいます。帖佐がどっちに入ったのかわからない。先に朝永がトイレから出て来る。とっさに帖佐だと思って刺す。そういうことだったのではないでしょうか」 「誤殺だったと」 「そう考えたいですね。そう考えれば朝永の事件で犯人が現われないのは当然だ、と思えるんです。犯人は帖佐を殺すつもりが朝永を殺してしまった。人一人を殺すんですから、犯人は上っていた。上っていなくても、間違う可能性はあります。殺されるはずの帖佐が第一発見者になってしまった。犯人としてはもう一度、帖佐を殺さなければならない」 「おそらくその通りだろうな。だが朝永のほうは今まで通り捜査してもらう」  と財津は言った。  そこに調査員の鏑木一行が現われた。だが捜査会議が終るまで待たされた。会議が終って捜査員たちが散る。だが、十四、五人の刑事が残って鏑木一行を囲む形になった。 「あなたは帖佐奈央を調査していたんですね。赤座社長に頼まれて」 「そうです」 「その調査内容を話してくれませんか」  斉木淳が奈央と情事関係を持っていたことを話した。そして斉木の家と会社を。二人の刑事が斉木淳を参考人として呼ぶために部屋を出ていった。 「帖佐の男は、その斉木だけだったんですかね。お手伝さんが、水曜日の男と言っていたけど」 「そうですね、たしかに彼女は水曜日の夕方になるといそいそと出かけていました。だが彼女はその男と会うのには慎重でしてね。尾行してもタクシーを乗り換えるんですよ。とうとうつきとめられませんでしたね」  一行は音代俊行のことは口にしなかった。赤座社長も、奈央の本命の男が音代俊行と知ったはずである。捜査本部が音代のことを知らないということは、赤座が喋っていないということだ。  苦労してつきとめた男だ。簡単に喋りたくはなかった。捜査本部は少し苦労して音代をつきとめるべきだと考えたのだ。 「帖佐奈央はどうして赤座社長の二号になったんですかね」  それも調べろ、と一行は言いたかった。 「母親が病気になったのが原因だったようですね。ぼくよりも赤座社長のほうがよくご存知でしょう」 「鏑木さんは、まだ調査を続けるんですか」 「ええ、赤座社長の依頼ですからね」 「犯人を追うことになる?」 「そういうことになりますね」 「帖佐奈央については、われわれよりもあなたのほうがご存知だ。何かわかったら、教えていただけますか」 「そうしましょう」  と一行は言った。鏑木一行が出て行ったあと、財津主任は、二人の刑事に尾行させた。 「あの鏑木という男は、何かを知っていて隠している」  と言った。今日は、帖佐奈央の葬式だろう。赤座社長以下数人だけの葬式になるはずである。この麻生にも二人の刑事を向けた。 「帖佐の過去を洗ってみる必要があるな」  と財津は、二人の刑事を捜査に当てた。  誤殺事件だったとすれば、二つの事件の犯人は同一人物ということになる。帖佐事件が解決すれば、同時に朝永事件も解決することになる。財津は愁眉を開いた。 「帖佐奈央には三人の男がいたことになるな。赤座社長、斉木淳、そして水曜日の男だ。彼女には三人の男が必要だったのかな」 「赤座は七十三歳と言っていた。老人に体をいたぶられれば、女は若い男が欲しくなるんじゃないですかね。それで斉木淳を求めた」 「ちょっと待って下さいよ。斉木淳……朝永真弓のダイイングメッセージが�ジョ�でしたね。ジョとジュン、似ていませんか」 「だが、斉木淳と朝永真弓はつながらないよ」 「どこかでつながっているんじゃないですかね。真弓はジュンと言いたかったのかもしれないじゃないですか。ジュンと言ったつもりが、発見者の二人には�ジョ�と聞こえた」 「だが、真弓を調べても全く斉木淳は出て来なかった。真弓と斉木淳がつながれば、よけいややこしくなる」 「斉木淳が、真弓と奈央を殺したとは思えませんか」 「誤殺事件だとすれば、真弓が斉木淳を知っているわけはありませんからね」 「あるいは上越新幹線で、または新潟で知り合ったとは考えられませんか」 「そううまくはいかんだろう」 「新潟か新幹線の中で知り合ったのだとしたら、われわれの捜査に影が見えなかったということは充分に考えられますよ」 「考えすぎではないのかな。それはとにかく斉木淳の身辺を洗ってもらおうか。まず、斉木に容疑を絞ってみたい」  刑事二人を斉木に向けた。  芳原刑事以下四人が財津主任のそばに残った。 「もう一人残っているな。水曜日の男だ。帖佐はこの男と会うのに慎重だった。だから、鏑木も尾行しきれなかった」 「相手が尾行を気にしていると、むつかしいですからね」 「斉木との場合はそれほど尾行を気にしている様子ではなかった。だから、鏑木も斉木をつきとめられた」 「パトロンの赤座としては、自分の二号に浮気されるのはいやなんでしょうね。彼女には大金がかかっている」 「だけど、斉木のことはわりにあっさり知れている。赤座も斉木とのことは認めていたようですね」 「赤座にしてみれば、帖佐は孫くらい若い。斉木と浮気されても仕方がないと思っていたのかな。だが、水曜日の男は違っていた。帖佐もけんめいに隠していた。少なくとも隠そうとしていた」 「赤座は水曜日の男のことも知っていたんじゃないかな」 「赤座も調べてみたいですね。可愛さ余って憎さ百倍ということもありますしね。少なくとも帖佐には二人の男がいた。そのことに腹を立てたのかもしれません。もっとも七十三歳では人殺しは無理でしょうから。だけど、赤座くらいの金があれば、人に頼んでも殺せます」 「殺しを人に頼むことはないだろうが、赤座も容疑に入れておこう」  財津は、斉木淳に容疑を絞っている、と言いながら、赤座社長も疑ってみる。何でも疑ってみるのが財津の仕事でもある。     3  斉木淳が刑事二人に連れられて上野西署にやって来て取調室に入れられた。財津はマジックグラスの裏の部屋に入った。  容疑者は、取調室に入れてしばらく様子を見る。すぐには取調べはしない。鏡の裏から見ていると、さまざまな変化を見せる。  取調室の壁にはめ込まれた鏡のことは、十年ほど前に、テレビのドラマでしきりにあつかわれた。だから、たいていの人は、鏡の裏から取調室が見えるようになっていることは知っている。  知っているから、鏡が気になって仕方がないのだ。斉木淳も同じだった。しきりに鏡を気にしている。開き直っている容疑者だったら逆に鏡を無視しようとする。  斉木淳は落ちつかなかった。もちろん、取調室に入るのははじめてだろう。殺人容疑者になることだってはじめてだ。彼は青ざめていた。 「どうですか、主任」  と芳原刑事が声をかけた。 「これはいかんな、吐くな」 「喋りますか」 「いや、そうではない、嘔吐《おうと》するということだ。芳原くん、ポリ容器を持っていってくれ。取調室を汚されてはかなわん」  ショックで、船酔いのような気分になることがある。芳原がポリ容器を持って来た。 「吐きそうになったら、これにお願いしますよ」  と言った。芳原はまた財津のところにもどって来た。 「どうですか」 「犯人じゃないようだな」  斉木はあまりにも怯《おび》えすぎている。殺人犯ならば、二人も殺しているのだから、どこかに開き直りがなければならないのだ。  彼は救いを求めるような目を鏡に向けた。 「もっとも犯人ならば落すのは簡単だろうがな、行ってみようか」  と言って財津は椅子を立った。彼は容疑者を取調べる前にこの椅子に坐って眺めるのをたのしみにしている。三十分でも一時間でも見ている。容疑者の心の中を覗いているのだ。  ドアを開けて取調室に入る。斉木はビクッと肩を震わせた。  机の向いの椅子に坐る。 「どうも、お待たせしました」  斉木は膝をガクガクさせているようだ。 「ぼ、ぼくは殺していません」  と叫ぶように言った。 「まあまあ、ゆっくりして下さいよ。そう堅くならないで」  と財津はキャスターの箱をさし出した。 「落ちついて下さい。ただ参考にあなたの話をお聞きしたいだけですから」  煙草を一本抜いて斉木にさし出した。彼が手にして咥《くわ》える。白い煙草が上下に震動した。歯の根も合わないのだろう。 「斉木さん、あなたが帖佐奈央を殺したとは思っていませんよ。でも彼女は殺されたのです。あなたはその関係者であるわけです。ですから事情をお聞きしなければならないんです」  財津はできるだけ優しく言った。彼はゴクリと咽を鳴らして唾をのみ込んだ。 「ぼ、ぼくは、こちらの刑事さんに、奈央が殺されたと聞いてびっくりしたんです。それまで知らなかったんです」  斉木は一気に言った。帖佐が殺されたことが、よほどショックだったんだろう。 「帖佐奈央が好きだったんですね」 「愛していました」 「愛ですか」  と言って財津は笑った。そばには芳原刑事が立っている。芳原はゆっくりと歩きまわる。それも気になるらしい。 「愛憎一重と言いますけどね。殺すほどに憎んでいたんじゃないんですか」 「いいえ、そんなことはありません。ぼくは愛していました。奈央を殺すなんてとんでもない。奈央はぼくのすべてでした」 「でも、彼女はあなたよりも齢でしょう」 「年上といっても、二つしか違わないんです。年上という気持はありませんでした」 「どうして知り合ったんですか」 「二年ほど前ですか、新宿のバアで友だちと酒を呑んでいるところに奈央が来たんです」 「どちらが先に声をかけたんです」 「奈央のほうでした。ぼくはそのとききれいな人だなと思いました。そしてフィーリングが合ったというのか、その夜のうちにラブホテルに行きました」 「ずいぶん早いんですね、関係ができるのが」 「フィーリングさえ合えば、その夜のうちにベッドに入るなんてことは珍らしくないんです」 「はじめて体を重ねるとき、彼女は何か言いましたか」 「はい、自分が赤座社長の二号であることを言いました。それでよければこれからもつき合ってくれって」 「あなたは、二号さんということで、何も感じなかったんですか」 「たしかにショックでしたが、知り合ったときから、そんなたぐいの人だとは思っていなかったんです。でも、奈央はきれいだったんです」 「二号さんならば、男を楽しませる方法はよく知っていたんでしょうね。いや、失礼、いまの質問はなかったことにして下さい。人権に関りますからね」 「あなたは、はじめは遊びだけのつもりだった。もちろん彼女も遊びのつもりで近づいて来たんでしょうから。結婚しようなどとは考えなかったんですよね」 「いいえ、結婚してもいいと思っていました。もちろん、ぼくの給料だけでは、生活していけませんけど」 「結婚してもいいと思っていたんですか」 「ええ、そうです。愛していましたから」 「愛していれば殺せるわけはありませんよね」 「ぼくが、殺すわけはないんです」 「でも、だんだん彼女はあなたに対して冷めたくなって来た」 「そんなことはありません」 「彼女には、別に好きな男ができたんです」 「ええ?」  と斉木は財津の目を見た。 「そんなことはありません。奈央に好きな男ができるわけはありません。たしかに、ぼくの将来のためにならないから別れよう、と言ったことはあります。淳にあたしのような女がついていてはいけない、とは言いました。でも、それはぼくを愛するからだったんです。奈央は、いつもぼくのためにならないと考えていました。ぼくを愛するからです。ホテルに行ったときには、ベッドで、いつも愛していると言っていました。愛しているがために、ぼくと別れようと言っていたんです。人の二号という生き方をしている女だからって。でも、ぼくには奈央が赤座のメカケであってもよかったんです。ぼくは奈央を愛していました。誰が奈央を殺したんですか」  一気に喋った。斉木は水曜日の男のことは知らなかったようだ。愛すれば鈍くなるのかもしれない。 「十二月十四日、つまり昨日のことですが、斉木さんはどこにいらっしゃいました?」 「アリバイですか、やっぱりぼくを疑っているんだ」 「関係者みんなに、うかがうことになっているんです」 「昨日は金曜ですよね。当然、会社に出ていましたよ。悲しいな、ぼくを疑うなんて。ぼくが殺すわけがないじゃないですか」 「じゃ、帖佐さんを殺したのは誰ですか」 「そんなこと、わかるわけないでしょう」 「何か思い当ることはありませんか。誰かが殺したわけです。帖佐さんは殺されたんですから」 「何も、思い当りませんね」 「帖佐さんが、新潟に行ったことを知っていましたか」 「ええ。十二日でしたか、奈央に電話しました。お母さんが危篤ということで」 「すると、斉木さんも上越新幹線で殺せたわけだ」 「殺していませんよ」 「いや、可能性の問題です」 「物理的可能性よりも人の心を信じて下さいよ」 「人の心なんて何の証拠にもなりませんのでね。あなたがいかに彼女を愛していたと言っても、殺していないという証拠にはならないんですよ。われわれは事実だけしか認めないんです」 「それでは、あまり悲しいじゃないですか」 「人の心は見えませんからね。あなたのアリバイが完全ならば、あなたは容疑者から外れるわけです」 「ぼくが奈央を殺すわけがありません」 「まだ、捜査本部としては、殺した証拠も、殺さなかったという証拠もないんですよ。いまのあなたは灰色なんです。これから黒くなるか白くなるか」 「警察には愛というのがわからないんですか」 「わからないんですよ。ただ証拠だけです。あなたは愛していたという証拠をここに出せますか」 「胸を裂《さ》いて見せてやりたい」 「胸を裂いてもそこにあるのは肺と心臓です。食道から胃もあるでしょうがね。胸を裂いても証拠にはなり得ないということです。斉木さん、警察官に愛を語っても無駄なんですよ」  と財津は笑った。  とりあえずは斉木淳に帰ってもらった。容疑から外れたわけではないのだ。財津はとりあえず斉木に容疑を向けてみた。だが、どうも違ったようだ。もっとも別に容疑者が出て来なければ、また斉木を呼ぶことになる。 「どうですか」  と芳原が言った。 「とりあえずは灰色だな。会う前よりもいくらかは白くなっているけどね。また、何かで黒に動くかもしれない」 「するとメインは水曜日の男ですかね」 「そういうことになりそうだね」 「鏑木を突ついてみましょうか。喋るかもしれませんよ」 「赤座のほうが早いかもしれんな」 「鏑木も赤座も、水曜日の男をかばいたいのですかね。かばうには理由があるはずですね」  財津はしきりに頷いた。     4  鏑木一行は、神保町の喫茶店『ロンドン』で珈琲をのんでいた。キャスターに火をつける。  帖佐奈央の素行調査は終った。赤座からそう言われた。だが、その日のうちに奈央が殺され、今度は殺人調査を依頼されたのだ。  赤座には、�第二営業部�と言っただけで、水曜日の男がわかったはずだ。第二営業部長は音代俊行とわかった。課長からいきなり部長に昇進した男だ。まだ三十八歳という。  東景ハウスの受付の落合暢子は、音代が社内で評判になったという。おそらく音代の背後には奈央がいたのだ。奈央が赤座に音代を部長にしてくれと頼んだ。奈央に溺れ込んでいる赤座は音代を部長にした。もちろん能力のない男だったら部長にはしなかっただろうが、音代にはそれだけの能力があった。  一行から�第二営業部�と聞いて赤座にはピンと来た。それで一行の調査を打ち切ったのだ。赤座にピンと来るものがあれば、一行にもピンと来る。暢子に聞いて音代とわかった。  音代が奈央を殺したのか。奈央は水曜日になるといそいそと出かけていた。斉木とのときにはいやいやながらという様子が見えていた。  奈央の気持は斉木から音代に移っていた。音代は奈央に部長にしてもらった。その恩もある。奈央は音代にだんだんのめり込んでいく。音代は奈央とは別れられなくなった。奈央と別れれば部長の椅子はなくなる。あるいは東景ハウスにもいられなくなるのではないか。  三十八歳で部長まで出世した。転職などできない。またヒラからやり直すのはむつかしい。音代が部長のままで奈央と別れるには、奈央を殺すしかない。そう考えるのは短絡的だろうか。  音代には家庭もあるだろう。奈央が音代にのめり込んで、結婚してくれと言ったらどうだろう、と考えてみる。やはり奈央を殺すしかない。  音代が奈央を殺した!  一行は、違うんじゃないだろうか、と思った。俊行なら奈央を殺すにしても殺し方を考える。新幹線のトイレで刺すような真似《まね》はしない。  これまでずっと奈央と体を重ねて来ている。いかに慎重に用心深く会っていても、奈央が殺されれば、音代の姿はやがて白日にさらされることになるだろう。�第二営業部�だけで赤座にはわかった。どこからかボロは出て来るものだ。  音代が奈央を殺すのであれば、深い山の中に連れて行って殺して埋めるだろう。奈央が行方不明になったくらいでは警察は動かない。山の中に埋めてしまえば死体も出ない。死体が出なければ事件にはならない。  一生死体は出ない。事件にはならない。こういう場合、ドラマでは大雨が降ったり、野犬が掘り出したりして死体が発見され事件になるのだ。死体が発見されないほど深く埋めればいい。  たとえば、音代が奈央を殺すのであれば、このような殺し方をするのではないか。新幹線のトイレで奈央の腹を刺すような殺し方をするわけはないのだ。  そういう理由で音代は奈央を殺してはいない、と思ったのだ。そういう意味でも、一行は一度、音代に会いたいと思った。 『ロンドン』を出ると、東景ハウスの前に立った。音代が出て来たら暢子が知らせてくれることになっていた。  五時半すぎると、社員たちがぞろぞろと出て来る。受付も五時半までである。暢子は帰り仕度をして出て来ると、一行のそばに立った。 「残業なのかしら」  と暢子が言う。ものかげに隠れて一時間ほど待った。 「来たわ」  と言った。会社から男が出て来る。部長だけに背広も体に合った高級なものだ。 「ありがとう、あとでつぐないはするよ」 「つぐないって何なの。あたしを抱いてくれるということ?」 「そういうことだな」  と手を振って、音代のあとを追った。それほど背は高いほうではないが、女にもてる男なのだろう。奈央が夢中になるのはこんな男だったのかと思う。  水道橋駅に着いたところで、 「音代さん」  と声をかけた。音代は足を止めて振りむいた。 「誰です、あなたは?」  一行は名刺を出した。 「東郷警備?」 「ええ、赤座社長に頼まれて、帖佐奈央さんをずっと調査していました」  音代の顔色が変った。 「ちょっとお喋りしませんか。あなたにお聞きしたいことがあるんです」 「断われば?」 「断われないでしょう。おそらく、あなたの一生の問題だと思うんですがね」 「いいでしょう。少し呑みに行きますか」  音代は覚悟したのか開き直ったのか、そう言って、顔をゆがめて笑った。もちろん、水道橋は音代の縄張りだろう。先に立って歩き出した。一行はそれに肩を並べる。 「いまさら、帖佐奈央なんて女は知らないと言っても駄目ですね」 「ええ、もうわかっています」 「どうしてわかったんです。尾行でわかりましたか」 「十二日、水曜日に奈央さんがあなたに電話しました。それだけですよ。あなたは第二営業部と言いました」 「お互いに電話しないことにしていたんですが、水曜日と彼女のお母さんの危篤が重なりましてね。運の尽きだったんですかね」 「どうして水曜日だったんですか」 「何となく、週一回で水曜日になってしまったんです」  音代は小さなバアに入った。いまでは珍らしい古風なカウンターバアだった。こんな店でよくやっていけるな、と思うほどである。  彼はときどきこの店に来て呑むことがあるらしい。カウンターに坐って水割りをたのむ。カウンターの中には中年女がいた。一人でやっている店らしい。ホステスを使うだけの売上げはないようだ。 「おれは、音代さんが奈央さんを殺したとは思っていません。あなたが殺すなら、他の方法をとったはずです」 「ぼくは殺していませんよ」 「それを信じますよ。でも、警察はそうはいかないでしょうね」  音代はカウンターの上に置かれたウヰスキーの水割りを呑んだ。 「おれはあなたの味方です。警察はあなたをつき止めますよ。水曜日の男は奈央殺しの容疑者ですからね」  音代は困惑していた。容疑者になることは覚悟しているはずだ。 「奈央さんとはどこで知り合われたんですか」 「五年前、ぼくと奈央はつき合っていました。愛とか恋とかというのではないんです。ただの男と女でした。会って酒を呑めば、どちらからともなく、ホテルで体を重ねていました。それが五年前にふといなくなったんです。彼女はぼくに何もつげずに去っていきましたし、ぼくも彼女を探しませんでした。つまり、そういう仲だったんです」 「なるほど」 「奈央とはそこで終っていたはずなんです。それが、昨年の夏でした。奈央と偶然に会ったんです。赤座社長の出版記念会場でした。奈央は四年間で変っていました。赤座社長の愛人になっていました。奈央はぼくを誘いました。ぼくは奈央とは会うべきではなかったんです。彼女は淋しかったんだと思いますよ。それでぼくを求めた。ぼくも応えてやるしかなかったんです」 「奈央さんは、あなたを部長にした。あなたのために何かをしてやりたかった。会社も無能な人を部長にするわけはありません。あなたにはそれだけの能力があったということでしょう」 「でも、奈央がぼくを部長にしてくれたのは間違いありません。いつかは部長になるにしても十年早かったんです」 「辞令が降りれば部長を拒否することはできない」 「ぼくも欲があったんです。奈央がぼくを部長にしてやると言ったときに断わっていたらよかったんです」 「奈央さんは、あなたに何かをしてやりたかった。愛情でしょうね」 「愛情ではありませんよ。ぼくによって淋しさを埋めたかっただけなんです。奈央は愛情と錯覚していたのかもしれませんが、第一、愛情とは一体何なのですか。いま、そんなことを言ってもはじまりませんがね」 「はじめは、男と女の関係だった。つまり体を重ね合うだけで足りていた。だがだんだんそれではすまなくなった。奈央はあなたに結婚を迫るようになった」 「部長になる前に奈央とは別れるべきでした。部長になってからは、拒めないようになっていたんです。奈央を拒むということは、東景ハウスを辞めるということになるんです。ぼくも考え込みました。部長の椅子に坐っているか、転職するかをです。でも、どうしてもふんぎりがつかなかったんです。男って弱いものですね。一度部長にまで出世した。するとその椅子からは降りられないものです」 「部長のままで奈央さんとは別れたい」 「虫のいい考えです」 「あなたは、殺意をもたれた」 「ぼくは殺していませんよ」 「ですから、おれはあなたが殺したとは言っていませんよ。でもあなたは奈央を殺すしかないところまで追いつめられたんじゃないですか」  音代は黙った。もちろん、おしゃべりは、カウンターの中のママに聞こえないような声である。そこにアベックが入って来た。二人は一行らとは離れたところに坐った。 「ところが、奈央は都合よく誰かに殺された。ちょっとできすぎていますね。あなたの代りに誰かが奈央を殺してくれたんです」 「ぼくの知らないことです」 「あなたは奈央が殺されたのを何で知りました」 「テレビのニュースです。ぼくは新聞を三、四紙買いました」 「そのとき、どういう気持でした」 「ビックリしました」 「ビックリだけではないでしょう。いろいろの思いがあったと思いますけどね」 「ありましたね。ぼくが容疑者になることも」 「音代さんは殺していない。誰かが殺してくれた。助かった、と思ったんじゃないですか。いつかは真犯人が捕まる。すると、釈放されて、部長のままで奈央はいなくなったことになる」 「そんな都合よくはいかないでしょう」 「真犯人が捕まらなかったら、どうなると思いますか。真犯人はあなたを容疑者にすることで助かる」 「まさか」  と顔を強張らせた。真犯人が捕まらなければ音代の容疑は晴れない。そこから警察がどうあつかうかは一行にもわからない。 「もちろん、十二月十四日のアリバイははっきりしているんでしょうね」  音代は返事をしなかった。     5  バアを出た。一○メートルほど歩いたところで、前に二人の男が立った。 「上野西署の者です。ちょっとお聞きしたいことがありましてね」  音代の体がピクッと揺れた。一行は音代に言った。 「どうもお疲れさん、また呑みましょう」  と手を上げた。音代も手を上げて去っていく。その後ろ姿を見ていた。音代は走り出したかったはずだ。 「誰です」  と刑事は振りむいた。 「知り合いですよ」  この刑事たちに尾行されていたのは一行だったようだ。 「それで、何ですか」 「鏑木さんは、水曜日の男を知っているわけでしょう」 「知りません。尾行を用心されると、なかなか相手をつき止めることはできません」  そのことは刑事たちも知っている。 「帖佐奈央は、水曜日の男と会うときは、タクシーを二回乗り換えていました。あるいは三回かもしれません。こうなると尾行は不可能なんですよ」 「あなたは、麻生の家に盗聴器をとりつけたんじゃないですか」 「調査依頼は赤座社長ですからね。麻生の家は赤座社長の家ですからね」  勝手に盗聴器を仕掛けては罪になる。 「そのことはいいんです。水曜日の男から、あるいは水曜日の男に、電話はあったでしょう」 「奈央と水曜日の男は、お互いに電話をしないようにしていたんですね。電話から関係はバレますからね」 「あなたは、水曜日の男を知らないと言うんですか。警察には協力しておいたほうがいいですよ」 「知っていれば、まず赤座社長に報告していますよ。依頼者ですからね」 「あなたは、まだ何か知っているでしょう。帖佐奈央が関係していたのは、赤座社長に斉木淳、そして水曜日の男、その三人の他にもいたんじゃないですか」 「あなたたちは、奈央を色気違いにするんですか」 「そういうわけではないが、三人いれば、四人いてもおかしくない」 「奈央は、男なら誰でもいいという女ではありませんよ」 「でも、金持ちの二号になる女だ。いや、これは訂正します。でも、男好きだったことは確かですよね」 「あなたたちには、男も女もわからないんだ。質問はそれだけですか」 「まあ、どうぞ」  と刑事は言った。一行は刑事たちのそばから歩き去る。  翌日——。  一行は、赤座社長に呼ばれた。会社から、赤座社長が会いたがっている、と電話があった。一行は、東景ハウスに足を向けた。赤座は待っていた。  ソファに坐る。女秘書が珈琲を運んで来た。この社長室で珈琲を淹《い》れているらしい。いい香りですね、と秘書に言った。秘書はニコッと笑った。  赤座が椅子から立って来てソファに坐る。 「鏑木くん。きみはもう音代俊行のことは知っているね」 「はい、どうにかわかりました」 「わしも、音代を考えなかったわけではない。奈央に音代を部長にしてくれ、と言われたときにね。奈央は音代を兄の親友だと言った。奈央には兄などいなかった。だが、わしは奈央を追及しなかった。惚れた弱味というのか。奈央にそっぽ向かれるのがこわかったんだな。奈央に好きな男がいたっていいじゃないかとね。わしのような老人に奉仕してくれるんだから。もちろん、はじめから音代を奈央の恋人と知っていたんじゃない。きみに言われてからだ。もちろん音代だとわかっても、音代を左遷しようなどとは思っていない」 「社長は寛大ですね」 「年をとれば、男は寛大になるものだよ。特に惚れた女には。もう奈央のような女は出て来ないね。このところ、わしはガックリきている。わしの奈央に対する気持はわかってもらえないだろうけどね」 「また、いい女を探して下さいよ」 「慰めを言わないでくれ。それはとにかく、鏑木くん、音代は奈央を殺したのかね」 「違うと思いますよ。音代さんが殺すのだったら、あんな殺し方はしません」  一行は自分の推測を喋った。 「なるほど、すぐ死体が出るような殺し方はしないか、そうだな。わしだってそうするだろうな。いや、ありがとう。それを聞いて安心した」 「昨日、刑事がぼくを尾行していました。そして水曜日の男は誰か知っているだろうと。社長が音代さんのことをおっしゃらないのに、ぼくが喋るわけにはいきませんからね」 「音代が殺していないのなら、隠す必要はないと思うがね」 「その辺の考え方が、社長とは違うんです」 「しかし、真犯人はいるわけだろう」 「いるでしょうね。でも真犯人が逮捕されないときは、音代さんは困った状態におかれると思いますよ」 「奈央を殺したのは誰かね」 「それはぼくにもわかりかねます」 「その真犯人というものを探し出してくれ。うちの会社の部長が犯人では困るからね」 「わかりました」  と言って、一行はソファを立った。  受付で落合暢子に、今日、六時半にいつもの呑み屋で待っている、と囁いた。  会社を出る。これから、すぐに行かねばならないところはなかった。喫茶『ロンドン』に入った。椅子に坐って珈琲をたのむ。  奈央殺しは音代ではない、と考えた。音代だったら、あんな殺し方はしない。となると他に犯人はいるのか、誰が奈央を殺したのかとなると、見当もつかない。  犯人は音代でない、と言いきっていいのか。奈央を殺す動機をもっているのは、音代だけということになるのか。部長の椅子は手放せない、それで奈央が邪魔だということになれば、殺すしかないということになる。  奈央の周囲の人物たちを考えてみる。一行の頭の中に他に容疑者は出て来ないのだ。すると音代は奈央を殺したのか。  奈央はただの女ではなかった。赤座の愛人だった。つまりセックスだけで生きている女だ。一度二度、つまみ食いする分には美味かもしれない。だが、週に一回でも決って抱くとなれば、気が重くなるのに違いない。油っこすぎるのだ。  その奈央が音代に結婚してくれという。それだけで殺意を覚えないだろうか。音代としては家庭をこわすつもりはない。それなのに奈央はのめり込んで来て、音代と一緒になりたいと迫る。殺す動機はある。そうなると、殺人方法がおかしいと言っておれないのだ。 「音代が犯人なのか」  山の中に連れ込んで殺して埋める。そのつもりだったのが、列車のトイレで殺すことになってしまった。ぼくが奈央を殺すのだったら、こんな殺し方はしない、と弁解できる。  でもそれで捜査本部が納得するだろうか。アリバイはあるんでしょうね、と言ったら音代は黙った。ある、とはっきりとは言わなかった。  音代がもし参考人として呼ばれれば不利になるだろう。一行にはだんだん音代が犯人のように思えて来た。奈央を殺すのは音代しかいないのだ。  七章 逮 捕     1 「あなた、何考えていらっしゃるの」  妻の章子に言われて、音代俊行は、ハッ、となった。 「このところ、お疲れのようね」 「ああ、ちょっとね」 「お風呂入ってお休みなさいよ」 「そうするか」  と言って立ち上った。そして浴室に行く。裸になって浴室に入る。湯槽には湯が張られていた。体を洗って湯舟に入る。少しぬるめの湯である。彼はゆったりと浸る。 「部長にならなければよかったのか」  課長のままだったら奈央とは別れられたのか。どっちにしても同じだったろう。  奈央は妊娠したと言った。赤座と別れてアパートに入ると言った。それは無理なはずである。赤座が手放すはずはないのだ。どこかアパートに隠れていても、赤座は奈央を探し出すだろう。  赤座はやがては奈央の男が俊行だということを知る。現に、調査員の鏑木は、赤座は俊行のことを知っている、と言った。赤座は俊行を地方にとばすつもりかもしれない。どっちにしても、彼は部長のままではいられない。  こうなることは、奈央とつき合いはじめたときからわかっていた。早く別れるべきだったのだ。と言っても無理に別れれば、奈央は俊行のことを赤座に告げるだろう。  結局は奈央とつき合っていいことはなかったのだ。奈央と会わなければ、課長としてつつがなく生きていた。部長になるのが十年後だとしても、それで人並みのサラリーマンだったのだ。  以前の奈央だったら、何の心配もなくつき合え、そして何の騒ぎもなく別れられたはずである。そのつもりで奈央の誘いに乗ったのか。  再び会ったときには奈央は赤座社長の女になっていた。四年前の奈央と同じつもりで誘いに乗ったようだ。奈央とまたつき合っても四年前と同じように、簡単に別れられると思い込んだのか。  あのとき、奈央の誘いを拒否していたら、と思う。何事もなく済んだのか。奈央が目の前から消えて以来、俊行は女とはつき合わなかった。そのチャンスもなかったのだろう。十年一日の如くというのか、凡々とした時を過していた。だから、気持のどこかでは刺激を求めていたのかもしれない。  あの出版記念パーティの日に、一言、 「ごめん、今日は都合が悪いんだ」  と言っていれば、深みにはまることもなかった。いればとかしていたらということは、いまになってみれば、何の意味ももたないのだ。  たしかに、あのときの奈央には興味があった。二号とか妾《めかけ》という言葉には、妙にセクシーなイメージがある。セックスを武器にして生きている女だから。四年前の奈央とどう変っているかにも興味があった。  それが落し穴だったのか。奈央は、思っていた以上に変っていた。四年前には多分に稚《おさな》いものを残していた奈央だったのに、完全に脱皮していたのだ。そのことにまた魅かれた。  奈央は大金のかかった女だ。それをただで楽しもうと思ったのが間違いだった。ただより高いものはないと言う。たしかに高いものについた。  そろそろ別れなければ、と思い出したころに部長の辞令が出た。これで別れられなくなった。奈央の作戦ではなかったのだろうが、俊行は自分で罠にはまっていった。奈央がだんだんのめり込んでくるのがわかっていた。だがそれをどうしようもなかった。  俊行は奈央の乳房を揉んでいて殺意を覚えた。この女はおれの一生を台なしにするつもりかと。  もちろん、奈央を殺すには完全犯罪を計画しなければならない。その計画を立てた。だがもちろんためらいがある。もしバレたときにはどうしようと。迷いがあって当り前だ。迷いながらも、殺すしかないのだ、と思った。  奈央を殺さなければ、明日がないのだ。迷っているうちに奈央の腹は大きくなる。腹が大きくなれば、更に始末するのに面倒になって来る。  奈央の母親が危篤だという。それで新潟に帰る。これがチャンスだと思った。チャンスは二度とはないのだ。  風呂から上ってキッチンに行く。 「あなた、ビールおのみになる?」  と章子が言う。ああ、と言って椅子に坐る。彼女はグラスと一緒に栓を抜いたビールを持ってくる。そして注いだ。俊行はそれを一気に呑み干した。  俊行は立って自分の机の前に立った。書斎を持てるほど家は広くない。居間の端に机を置いていた。その曳出《ひきだ》しを開ける。そこに運転免許証があった。三年前に拾ったものである。届けなければと思いながら忘れていた。届けるのが面倒でもあったのだ。  それを確かめてテーブルにもどった。すでにこの免許証でレンタカーを借りたのだ。二杯目のビールを呑む。  奈央が死んだことを知ったとき俊行はホッとした。殺そうと思っていた女を、他の誰かが殺してくれた。これで助かったと思った。俊行にとっては天から降って来たような幸運だった。  もちろん、犯人が捕まってくれれば、何事もなくすむのだ。だが、もし犯人が捕まらないときはどうなるのか、と思ってゾーッとなった。  第一の容疑者には自分がなる。奈央を殺す動機はある。殺していなくても警察は俊行を疑うだろう。もしかしたら犯人にされてしまうのではないか、と怯えた。その怯えはいまも続いているのだ。  殺してはいない。殺していないから大丈夫だとは言えないのだ。殺す計画は立てた。それだけで警察は疑うだろう。  ビールを呑んで寝床に入った。なかなか寝つかれなかった。そのうち疲れで眠ってしまったようだ。  翌朝、いつものように家を出て会社に向う。胸の中には重いものがあった。会社に着いて第二営業部の部長の椅子に坐る。原田久美子がこちらを見ていて目が合った。彼女を誘ったのは俊行だった。誰かを誘って酒を呑みたかった。酒を呑んで久美子を抱いた。  奈央に殺意を持ちはじめたころである。久美子は抵抗もなく体を開いたのだ。  卓上の電話が鳴った。受話器を把《と》った。 「社長がお呼びでございます」  と社長秘書が言った。ドキッとなった。やっぱり来たか、と思った。左遷の命令かもしれない。 「いま、いきます」  と言って受話器をもどした。そして第二営業部の部屋を出る。廊下を歩き、階段を上る。足に力がなかった。社長室のドアをノックする。ドアは内側から開けられた。部屋に入る。この社長が寵愛する女を奪ったのだ。何か罰があって当然だろう。  赤座は大きな机の前に坐ったままだった。 「さっき、上野西署から電話があった。きみに任意出頭してくれということだった。きみは奈央を殺していない、そうだろう」 「はい、殺していません」 「東郷警備の鏑木くんもそう言っていた。きみが奈央とつき合っていたことは、わしのほうから刑事に話した。きみの容疑は晴れるはずだ。行って来たまえ」 「はい」 「奈央とつき合っていたんだから、容疑をかけられても仕方がないな」  と言って赤座は口もとで笑った。彼のせいいっぱいのいや味だったのかもしれない。 「ご迷惑をかけました。行って来ます」  と頭を下げた。     2 「主任、音代俊行が出頭して来ました」  と井上刑事が言った。 「来たか」 「取調室に入れておきました」 「いいだろう。顔をおがんで来るかな、二枚目の」  と財津主任は椅子を立って、取調室の裏の部屋に入った。鏡の裏から取調室を見る。そこに音代が坐っていた。両手を膝の上に置いている。前の斉木淳ほどではないが、かなり堅くなっている。  もっとも取調室に入ってのんびりとしているのはかなりの悪党だ。 「芳原くん、どう見るかね」 「動機は充分でしょうからね」 「あの男が殺したのかね」 「じっくり調べさせてもらおうじゃないですか」  財津は裏の部屋を出た。すぐに取調室に入るのかと思ったが、そうではなかった。捜査本部の部屋にもどってやかんからお湯を土ビンに入れた。そして茶碗に注ぐ。黄色く色のついているだけのお茶である。だが熱いだけましである。  茶碗を持って椅子に坐る。茶碗をテーブルに置いてマイルドセブンに火をつけ、煙を吐く。どう攻めるかの作戦を考えているのだ。考えている間、刑事たちは声をかけない。遠くから見ているだけだ。 「音代の身辺を調べたのは誰だ」 「はい、わたしです」  と刑事が前に出て来た。 「どうだった?」 「ふつうのサラリーマンですね。妻と子供が二人。三十代で営業部長になれる男とは思えませんね。会社で聞いても、たしかに仕事はできる男らしいですが、とくに会社のために手柄をたてて部長になったというのではなさそうですよ。それに会社の女の子の話ですが、音代は自分の部下に手をつけていますね」 「相手の名前は」 「原田久美子という社員です。油っこいものを食べたあとは」 「淡白なものがいいか。あんな男が女にモテるのかね」 「ほんとの二枚目というのは女にモテないし、女にも手を出さないといいますよ」  と別の刑事が言った。 「なるほど中途半端な二枚目がモテるのか」 「モテるのではなくマメなんでしょう」 「わかった」  と言ってまた考え込む。どこから攻めたら効果があるかである。  財津は、芳原刑事を連れて取調室に入った。 「ああ、これは寒いね。きみ、ストーブを入れてくれたまえ、少し長くなりそうだからね」  と財津は入口のそばに坐っている巡査に言った。すでに音代への攻撃ははじまっているのだ。 「お待たせしました。いや、寒いですな、冬は寒いのは当り前ですが」  と言って音代を見る。一直線の目つきである。音代は目を伏せてしまった。睨み返すだけの気力はなかったのだ。 「帖佐奈央を殺しましたか」  といきなり言った。これが財津の取調べのやり方である。 「殺していません」 「帖佐奈央はいい女ですね。彼女は二ヵ月前の殺人事件の第一発見者でしてね、ご存知ない」 「そんな事件知りませんよ」 「二ヵ月前、正確に言えば十月二十三日です。同じ上越新幹線で朝永真弓という女が、ナイフで腹を刺されて殺されたんです。そのときの第一発見者が帖佐奈央でしてね」 「そういえば、奈央から聞いたような気がします」 「どこで」 「どこでって」 「聞いた場所があるでしょう。駅のホームでとか、喫茶店でとかホテルの中でとか」 「ホテルの中です」 「羨しいですな、彼女とホテルに行けるなんて、つまり、帖佐奈央との関係は認めるわけですね」 「それはもう、ご存知なんでしょう」 「ええ知っています。でもあなたの口から聞きたいんです。どこのホテルですか」 「ホテルニューオータニだったと思います」  巡査がストーブを運んで来て火をつける。強烈な臭いがした。財津は立って窓を開けた。窓から冷気が流れ込んで来て、よけい寒くなる。 「音代さんは、社長の女を盗んだわけですね。いや、二号さんとかおメカケさんというのはたいてい持ち主がいるものです。あなたは、自分の会社の社長のおメカケさんを盗んだわけです。ずいぶん勇気が必要だったでしょう。どこで知り合ったんですか」 「社長の出版記念パーティの会場です」  俊行はその四年前に知り合いだったことを説明した。 「帖佐奈央さんはきれいな女でした。特に目つきがね、何とも言えない目をしていましたよ。目のいい女は……まあそのことはいいでしょう。あの手の女はちょっと遊ぶだけなら最高ですが、いいえ差別しているんじゃないですよ。一般常識で言っているんです。長くつき合っていると、つき合いきれなくなる。帖佐奈央はあなたに結婚を迫ったんじゃないですか」 「そんなことはありません」 「いまは死人に口なしで、結婚を迫ったと証言する人はいませんがね、あなたは彼女とつき合うのがいやになった。彼女が妊娠したと言う。奥さんと別れてあたしと結婚してくれと迫ってくる。あなたは彼女には飽きていた。殺すしかないと考えた」 「奈央はやっぱり妊娠していましたか」 「いま何と言いましたか」 「奈央は妊娠していたかと。解剖したんだから、わかったんでしょう」 「なるほど、妊娠していました。四ヵ月を過ぎていた。彼女は子供を生むと言った。あなたは子供が生まれては困る。殺してしまわなければと思った」  音代は黙った。 「彼女は妊娠していると言ったんですね」 「はい、言いました」 「堕胎しろと言っても承知しなかった。どうしても生むと言う。あなたは困った」 「………」 「音代さん、ほんとは帖佐奈央は妊娠していなかったんですよ」 「えっ!」 「念のため解剖した医務員に聞いてみました。妊娠はしていなかったんです。彼女は妊娠したと言ってあなたの気持を引きつけようとした。あなたは、彼女に欺《だま》されていた。妊娠していなければ、あなたは帖佐奈央を殺さなくてすんだんです。妊娠で殺意を覚えた、そうですね」 「ぼくは殺していません」 「そのうち、殺しましたと自白したくなりますよ。十二月十四日はどこにいました?」 「当然、会社にいました」 「下手《へた》な嘘は止めるんですね。あなたは十三日と十四日は休みをとっている。どうして嘘をつくんです。その嘘の理由を言っていただけますか」 「ぼくは奈央を殺していません」 「いまは、殺したかどうかはどうでもいいんです。あなたのアリバイを聞いているんですよ」 「アリバイがないからといって、殺したとは限らないでしょう」 「そういう言い方はよくないですね。アリバイがないということは、殺人の可能性があるということですからね」 「アリバイはあります」 「それを言って下さい」 「午後五時に、新潟駅前の新潟レンタカー会社にいました」 「新潟のレンタカー?」 「五時ころです、聞いてみてくれればわかります」 「五時というと、帖佐奈央が殺された『あさひ三二○号』は上野に向って走っているころだ。『あさひ三二○号』は、新潟を十五時五十六分に発車する。三時五十六分、ほぼ四時だ。あなたは五時にレンタカー屋にいたんですね」 「そうです。新潟駅前にレンタカー会社は一軒しかありませんから」  財津は芳原刑事に顎をしゃくった。芳原は部屋を出ていく。 「十三日に新潟に行ったんですか」 「そうです」 「どうして新潟に?」 「奈央を誘ってドライブしようと思って」 「彼女のお母さんは危篤だったんですよ」 「どうにか峠を越えて、病状は安定したということで」 「あなたは彼女を殺したかったんでしょう」 「いいえ、奈央を愛していました」 「おや、また変ったんですか」 「ぼくは奈央を殺したいなんて一度も言っていませんよ。ぼくは新潟ははじめてなんです。それであちこちを奈央を連れて走ってみたいと思ってレンタカーを借りたんです」 「そして?」 「ところが、どっかで行き違ったらしくて奈央とは会えなかったんですよ。それでドライブは諦めて車を返しに行ったんです」 「どうして会えなかったんですか。新潟に行く前に打ち合わせしていたんでしょう」 「いいえ、していませんでした」 「それじゃ、おかしいじゃないですか。お母さんはもしかしたら亡くなるかもしれない。それなのに、あなたは彼女とドライブですか。彼女は、あなたが新潟に来るのを知らなかったから連絡がとれなかった」  芳原がもどって来て、財津の耳に囁いた。 「音代さん、あなたはまた嘘を言いましたね。新潟レンタカーの帳簿には、あなたの名前はありませんでしたよ。十二月十四日の帳簿にはです。あなたはレンタカーを借りていない。だから返しに行くわけはないんです」 「すみません。他人の免許証を使いました」 「他人の免許証ですって?」 「間違って使ったんです。三年ほど前に拾ったものが残っていたものですから」 「冗談じゃないですよ」 「すみません、その免許証、家にあります。女房に電話して持って来させます」 「いいえ、うちの刑事に取りにやらせます」 「ぼくの机の右の曳出しです。すぐ見えるところにあります。女房にそう言って下さい」 「その免許証の持ち主は」 「福田清です。間違って使って、あとで気付いたんですが、そのままにしておいたんです。申しわけありません」  そう言って肩を落した。芳原刑事は財津に向って頷いてみせた。新潟に福田清はいたのだ。     3 「音代さん、あなたの言っていることはみんな嘘だ。警察を甘く見ないで欲しいですね」 「ただ、間違っただけじゃないですか」 「間違ったんじゃない。故意に人の免許証を使ったんだ。これは計画的だ」 「そんなことありません。家から免許証を持っていくとき間違えたんです。一緒の曳出しに、ぼくの免許証も入れておいたものですから」 「そんな言いわけは通りませんよ」 「どうしてですか、間違いは誰にもありますよ」 「だったら、それをどうしてはじめに言わないんですか、あなたは途中で他人の免許証で車を借りたことを思い出したんでしょう」 「それを忘れていたんです」 「あなたは帖佐奈央を殺したんでしょう」 「殺していませんよ」 「それを誰が証明してくれるんですか」 「ですから、そのレンタカー会社が。もう一人、東郷警備会社の調査員、鏑木一行という人が証明してくれます」 「なるほど鏑木さんがね。呼んで聞いてみましょう。もう一つ」 「何ですか」 「あなたが借りた車のトランクに、新しいスコップが入っていたそうです。このスコップは何ですか、帖佐奈央を殺してどこかに埋めるつもりで、新潟でスコップを買ったんですね」  音代は黙った。 「なぜ、スコップがあったんですか」 「ぼくは奈央を殺していません。ほんとです」 「いまはスコップのことを聞いているんですよ。なぜですか、答えて下さい」  音代は黙った。答えられないのだ。 「そうですか、今夜は泊っていただきますよ。あなたは嘘ばかりついている。捜査本部をバカにしている。それでは通りませんよ」  別に刑事を呼んだ。 「家に電話させてくれませんか」 「こちらから連絡しておきます」 「弁護士を呼んで下さい」 「どうぞ、それくらいの権利はありますからね」  財津は椅子を立ち上った。音代は刑事たちによって留置場に連れられていく。財津は捜査本部にもどった。ここにいた刑事たち七、八人は鏡の裏から財津の取調べを聞いていた。  財津はお茶を淹《い》れた。色のついただけのお茶である。椅子に坐って火をつける。他の刑事たちは、彼の周りに集まってうろうろしている。 「高田、きみの意見を聞かしてくれ」  高田刑事は財津の前に立った。 「音代は犯人ですね。被害者から妊娠していると聞かされていた。堕《おろ》せといっても彼女は聞かなかった。事実は妊娠していませんでしたが。被害者が妊娠したと勘違いしたのか、音代を欺すつもりだったのか、その辺はわかりませんが、被害者のことが赤座に露見すれば、どういう処分を受けるかわからない。部長の椅子も大事にしたい、となれば被害者を殺すしかなかったろうと思われます」 「音代の心情はいい」 「はい、ですから、音代は殺す方法を考えていた。たまたま被害者の母親が危篤で新潟に帰る。これはチャンスと思った。それで音代も新潟に行く。そして車を借りた。この車に被害者を乗せて山の中に入り、被害者を殺して山の中に埋めるつもりで、スコップを買った。だが、被害者とは会えなかった。いや、ドライブを拒否されたのかもしれません」 「ドライブに誘われて帖佐奈央が断わったとは考えられんな。帖佐は音代に夢中だった。誘われればひょいひょいと乗るだろう」 「それでは、被害者と連絡がとれないで、新潟駅で張り込んでいた。音代は被害者が駅に現われ、改札を入るのを見た。急いでキップを買い『あさひ三二○号』に乗る」 「そこには少し無理があるな」 「でしたら、音代は被害者から十四日の『あさひ三二○号』に乗るという連絡を受けていた」 「それならば、駅で待っていて姿を見せた帖佐をドライブに誘えばいい。帖佐はドライブを断わらない」 「音代は駅で考えを変えた。『あさひ三二○号』の中で帖佐を殺そうと」 「ちょっと引っかかるがね。まあいいだろう」 「同じ十一号車に乗っていて、被害者がトイレに立つのを待つ」 「帖佐がトイレに立たなければどうするんだよ」 「トイレに立ったんですよ」 「そこも引っかかるな」 「彼女をつけてトイレと洗面所のあるところに行く。そしてナイフを抜いて待つ。トイレから出て来たところを刺す」 「五時にレンタカー会社に行く。これはどう説明する」 「刺してから、再び新潟にもどる方法はあるんですよ」 「『あさひ三二○号』は新潟を十五時五十六分に発車する。まあ四時だな。そして、五時にレンタカー会社にいる。その間一時間しかないじゃないか。帖佐を殺すには時間がなさすぎる」 「すると、主任は音代は被害者を殺していないとおっしゃるんですか」 「おれも音代は犯人だと思っている。だが思っているだけでは何にもならない。理論的に詰めていかなければならん。きみたちの頭で詰めてくれ」  音代が帖佐を殺すにはそのプロセスがある。そのプロセスに無理があってはならないのだ。  刑事たちは、二人、三人頭を寄せ合って話合っている。  音代が帖佐に殺意を持ったことは確かだ。新潟でレンタカーを借りている。しかも他人の免許証だ。間違えて他人の免許証を持っていったとは思えない。間違いではなく計画だったのだ。たとえ帖佐の死体が発見されたとしても捜査は音代までは及ばない。  それよりも問題はスコップである。このスコップには殺意がこめられている。新潟に行き車を借りてから、市内でスコップを買った。スコップを買った店もつきとめられるだろう。そのことは新潟署に頼んである。  車に帖佐を乗せ、山の中に入って殺し、穴を掘って埋める。そうすればとりあえずは安心だ。死体が出るまでは事件にならない。あるいは死体は出ないかもしれない。  死体は白骨化している。誰だかわからない。たとえわかったとしても、何十年も経っていれば、運んだ車もわからなくなる。音代までたどり着くのは不可能だろう。  音代はそういう完全犯罪を企んだ。おそらく完全犯罪は成立しただろう。帖佐奈央は行方不明、失踪で終る。失踪者は年間八百人を越すといわれている。  音代には殺意はあった。だが、完全犯罪を狙いながら、どうして列車内殺人に切り換えたかである。どうして『あさひ三二○号』で帖佐を殺したかである。この点が財津にはわからない。  帖佐との関係をいかに秘密にしていても、いずれはわかることだ。現に赤座社長と鏑木一行は知っていた。知れてしまえば、音代は帖佐を殺す動機を持っている。第一に容疑者にされる。  それを考えれば、上越新幹線の中では殺せなかったはずだ。それなのに殺した。これはどういうことなのか。音代だけが知っていることだろう。  音代は、レンタカーのトランクの中にスコップを残して来た。たしかにスコップを持って歩くのは格好が悪い。スコップは殺意の象徴である。なぜスコップを残して来たかもわからない。  音代は、帖佐を山の中では殺せなかった。だから新幹線の中で殺した。なぜだ。そんなにさし迫っていたわけではないだろう。  東京で帖佐をドライブに誘って殺してもいいではないか、なにも新潟の山の中でなければならないということはないだろう。 「わけがわからんな」  と財津は呟いた。  それにアリバイの件がある。四時に発車した『あさひ三二○号』に乗って、五時には新潟にもどって来ている。五時といえば『あさひ三二○号』は上野にも着いていない。時刻表をめくった。高崎に十七時三分に着く。つまり高崎に着く前である。 「もしかしたら、音代は犯人ではないのではないか」  だが、音代が殺意を持っていたことは確かであり、動機も充分にある。音代以外には容疑者はいないのだ。犯人は音代しかいないのだ。 「音代が犯人でなかったら誰なんだ」  帖佐を殺した犯人が他にいるのか。 「主任、音代のアリバイは崩れましたよ」  と辻刑事が言った。彼はメモを持って来た。    『あさひ三二○号』    新潟発   十五時五十六分    長岡着   十六時十六分    (下車して新潟行に乗り換える)    『とき四一七号』    長岡発   十六時二十五分    新潟着   十六時五十分 「つまり、音代は充分に五時にレンタカー会社に行けるわけです」  財津は唸った。 「『あさひ三二○号』は新潟を出発して、二十分後には長岡に着く。それはいい。だが、この二十分の間に帖佐がトイレに立つかね。トイレに行くか行かないかは帖佐の生理だ。あるいは上野に着くまで帖佐はトイレに立たないかもしれないではないか。こんないいかげんな殺人計画はないね」 「だったら、音代が被害者をトイレに誘うんですよ。被害者はびっくりしながらも、音代のあとからトイレに立ちますよ。トイレの前に来たところで被害者を刺す。そしてトイレに押し込み、ドアをロックするんです」 「なるほど、そうなれば可能か」 「あとは音代の自白だけですね」  と辻刑事は言った。音代のアリバイはあっさりと崩れてしまったのだ。     4  翌日——。  財津主任は捜査本部に鏑木一行を呼んだ。鏑木ならば自分の無罪を証明してくれると音代が言ったからでもある。もっとも彼は他の何かを握っているかもしれなかった。  捜査本部は捜査の視点を限っている。つまり一つしかないのだ。それが調査員となれば角度を変えて見られるのだ。  もっとも捜査本部は証拠主義である。推測は役に立たない。警察捜査は事実の積み重ねなのだ。そこからしか何も出発できない。調査員は自由な発想ができる。TPOによっては大きな差が出て来ることもある。  鏑木一行が姿を見せた。それほど背は高くはないが、叩いても音《ね》をあげないような図太さがある。東郷警備に入るまでは、地面を這いまわるような生き方をして来た男だと聞いている。 「鏑木さん、音代俊行はあんたが無罪を証明してくれると言っているんですがね。あなたは音代の何を握っているんですか」  財津に言われる。鏑木は頭を掻《か》いた。 「そう言われると困るんです。おれが何かを握っているというわけじゃないんですよ。ただの心情的なものです。音代ならば新幹線の中では殺すような真似はしない。山の奥深くに奈央を埋めるだろう。そう思っただけなんです」 「そのことはこちらも考えてみましたよ。音代としては、帖佐を殺しても死体は出したくなかった。死体が出ればまず容疑者になるのは自分ですからね」 「ええ、ですから、おとといですか、音代さんとはそんな話をしたんです。でも、おれの考えも少し変って来たんです」 「どう変ったんです」 「やっぱり音代は奈央を殺したんじゃないかとね。音代には殺意と動機がありますよ。それが一番重いんじゃないですかね」 「あなたも、音代犯人説ですか」 「どう考えても、他に容疑者はいませんからね」 「そうですか、鏑木さんもそういう考えですか。実は今朝《けさ》音代に逮捕状が出ましたよ」 「やっぱりね」 「音代に会いますか」 「いや、止めておきましょう。でも、おれは音代が犯人ではない調査に賭けたいと思っています」 「音代が犯人ではない?」 「ええ、音代には殺意と動機がある。だけど犯人は別にいる。そう考えられんこともないですからね」 「音代にはアリバイもないんです。アリバイがなくて殺意と動機があるとすれば、九○パーセントは犯人でしょう」 「ですから、残る一○パーセントに賭けてみたいんですよ。依頼者の赤座社長にも、犯人は音代ではない、と言いましたからね」  鏑木はそう言って帰っていった。一○パーセントでも犯人ではない可能性があるのだ。  財津は、音代を留置場から取調室に移した。音代は一晩でやつれていた。髭《ひげ》がのびているせいかもしれない。 「眠れましたか」  留置場に泊められて眠れるわけはない。これまで普通の生活をして来たのだから。 「音代さん、まず言っておきます。あなたに逮捕状が出ましたよ」  と逮捕状を開いて見せた。 「そんな馬鹿な、ぼくは殺していませんよ」 「音代さん、�ジョ�って何ですか」 「ジョって何です」 「あなたは、もう一人、殺しているんです。十月二十三日、同じ上越新幹線のトイレの入口で、朝永真弓、三十一歳です」 「ぼくはそんな女は知りませんよ」 「そうです。あなたは知らないはずです。帖佐奈央と間違えて殺したんですから」 「冗談は止めてくれ」 「帖佐奈央は隣りのトイレに入っていた。それをあなたは間違えた。朝永真弓を帖佐奈央と思い込んでしまった。それで腹を刺した。あなたは帖佐奈央じゃないと知って急いで逃げた。隣りのトイレから出て来た帖佐奈央は第一発見者になった」 「そんなこと知らない」 「朝永真弓は死ぬ前に�ジョ�とだけ言ったんです。つまりダイイングメッセージです。�ジョ�とは何か教えてくれませんか」  音代は黙った。 「知っていても言えないでしょうがね。あなたは帖佐を殺すつもりで、朝永真弓を殺した。人違いだったので、今度は帖佐を殺した。そういうことでしょう」 「ぼくは誰も殺していない」 「だけど、殺したいと思った。殺す用意もした。スコップが何よりもそのことを物語っていますよ。殺したいと思ったんですね」 「………」 「帖佐を殺さなければ、あなたの将来はない。だから完全犯罪を狙った。そうですね」 「ぼくは殺していない」 「すると、スコップをどう説明しますか。スコップをなぜ買ったんですか。それを説明してくれませんか。家庭菜園ですか、死体を埋めるのに穴を掘るためですか」 「………」 「殺意はあった、だけど殺していない。そういうことですね」 「そうです」 「すると、殺意は認めるんですね」  音代は黙った。財津にはめられたような気がしたのだ。 「いま、殺意はあったが殺していないと言ったじゃないですか。それとも殺意があって殺したんですか」 「殺していません」 「すると殺意は認めるんですね」 「ええ」  と小さな声で言った。 「その殺意について説明して下さい」  財津は狡猾《こうかつ》だった。殺したことよりも殺意を先に認めさせようとしている。殺意を認めれば、そのあとに殺人を認めさせるのだ。 「奈央もはじめは、遊びだけのつもりだったはずです。七十三歳の老人に体をいじりまわされている。だから、ときには自分に合ったセックスをしたいのだと思いました。それにぼくを選んだんだと思います。ぼくも社長の二号を抱くのには抵抗がありました。でも男と女です。奈央は美人です。魅力のある女です」 「あなたには社長の女を盗むという気持はなかったんですか」 「ありました。だから適当なところで別れようと思っていたんですが、奈央はぼくを部長にしてくれました。それで別れられなくなってしまいました。奈央がぼくにのめり込んで来るのがわかりました。でも、部長の椅子がぼくに重くのしかかっていました。部長を返上して奈央とは別れるべきでした。ぼくにはそれができなかったんです。社長がぼくを部長にしてくれなければよかったんです」 「人のせいにするわけですね。部長になれば彼女とは別れられなくなると予想はついたんじゃないですか」 「あなたにはサラリーマンの出世欲はわかりませんよ。部長になるからにはいくらかのリスクは仕方がないでしょう。ぼくは奈央とうまくつき合えると思いました。ところが、奈央はいきなり妻と別れてくれと言いました。ぼくが妻と別れられないのを知って、今度は妊娠していると言いました。必ず生むのだと。そのために、いまの麻生の家を出てアパートに住むと言いました。そこで赤ん坊を生むのだと。そして、ぼくには週に二回アパートに来てくれと。そんなことするとアパートはすぐに社長につきとめられる。ぼくは部長の椅子を失うだけでなく、会社をクビになります。第一にぼくが生活できなくなり、奈央だって生活できないでしょう。破滅が目に見えています。ぼくの半生は一体どういうことになるのだろうと」 「部長の椅子に坐ったまま、彼女と別れるには彼女を殺してしまうしかないと考えたんですね」 「そうです。でも殺していません」 「殺したいと思うのと、殺してしまうということの間には雲泥の差があります。だけど、殺してしまおうと計画した。彼女が新潟に帰ったので、あとを追って新潟に行きレンタカーを借りた、他人の免許証で。そして市内でスコップも買った。死体を土の中深くに埋めるために。埋めてしまえば死体は出ません。永久に出ないかもしれない。するとあなたは部長のまま、彼女はいなくなるわけです」  財津はそう言って黙った。ときどき黙り込むのもこの男の手である。容疑者のほうはそれだけ不安になる。 「まあ、ゆっくりいきましょう。急《せ》いても仕方がない」  と財津はマイルドセブンの箱を出して、音代の前にさし出した。音代は左手を出した。 「二人を殺した犯人は左利きなんですよ」  音代はビクッと手をふるわせた。     5  鏑木一行は、新宿の大衆酒場で落合暢子と酒をのんでいた。水道橋から来ると渋谷よりも新宿のほうが落ちつく。以前から酒をのむとなるとたいてい新宿だったのだ。二人ともハイサワーをのんでいた。口当りがいいし、酔い心地もいい、というより安く酔えるからでもある。 「部長は、ほんとに麻生さんを殺したの」  東景ハウスの社員は、帖佐奈央のことを麻生と呼んでいる。そのほうが呼びやすいのだ。 「さあね、まだわからん。だけど逮捕状が出たと言っていた。逮捕状が出るということはそれだけ理由があるんだろうね。だけどおれは赤座社長に音代さんは犯人じゃないと言った」 「ほんとに犯人じゃないんですか」 「おれは犯人ではないと思っている。だけど思っただけじゃ駄目なんだな。犯人ではないことを証明しなければならない」 「どうやって証明するの」 「それにはほんとの犯人を探し出すことだよ」 「ほんとの犯人は誰なの」 「それがわかればね」 「ほんとの犯人っているんでしょう」 「捜査本部では、音代さんをほんとの犯人だと思っている」 「ほんとの犯人が別にいるのに」 「音代さんがほんとの犯人かもしれない」 「だって、ほんとの犯人は別にいると言ったじゃない」 「ほんとのところは誰にもわかっていないんだ。はじめは、おれも音代さんは犯人じゃないと思ったんだけどね。音代さんには殺意と動機があった」 「殺意って何なの」 「二人っきりになって話そう」 「ということは、ベッドの中でってこと」 「そういうこと」 「だって、あたし、でも」 「恋人にバレなければ、なかったことと同じなんだよ。同じだったら楽しんだほうが得だよね」 「そういうことになるわけ」 「当然だよ、男と女なんだから」  一行は立ち上った。そして店を出る。暢子はついて来た。もちろん暢子とははじめてではない。今夜で三度目である。  たしかに音代は奈央を殺すつもりだった。殺すしか方法がなかったのだろう。はじめのうちはとにかく、音代は奈央の顔を見るのさえいやになっていた。奈央のような女は濃厚な女だけに飽きが来るのも早い。  油っこい中華料理は臭いを嗅《か》ぐだけで反吐が出る。反吐が出はじめるとどうしようもない。毎週水曜日に会うだけでも気が重かったのではないのか。  その上に奥さんと別れてくれ、妊娠した、と言われれば殺意を覚えても当然だろう。このことは捜査本部で聞いた。 「音代部長をどう思う?」  暢子とホテルに入っていた。彼女は湯槽に湯を注いでいた。 「いい人だと思うけど」 「いい人というのは、ときによっては悪いことをするものだけどね。魅力あったのかな」 「そうね、あまり目立たない人だったみたい。社内の女たちはわりに騒がなかったもの。いままで部長は女の噂はなかったわ。部長に夢中になる女の子もいなかったんじゃないのかな、あっ、お風呂いっぱいになる」  と言って暢子は浴室にとんで行った。 「ちょうどいいわ。先に入って」 「きみも一緒にどうだ」 「いやよ、彼ともまだ一緒にお風呂に入ったことないのよ」 「そういうことって早く卒業しなけりゃ」 「今度、彼とお風呂に入っておくわ」  一行は裸になって浴室に入る。風呂の湯はぬるめだった。湯槽に体を沈める。  奈央はいい女だった。一度は抱いてみたかった。音代がいやになったように、半年も一年もつき合うような女ではない。濃厚なベッドシーンもせいいっぱい楽しむのは、ほんの何回かだろう。だんだん鼻についてくる。  ベッドシーンにテクニックを使えば、そのテクニックは次第にエスカレートしてくるのだ。そしてついには、サドマゾの世界に入って行くんじゃないのだろうか。  おいしいものというのは、たまに食うからうまいものである。いつも食わされていたのじゃ、やはりおいしいものではなくなってくるのだ。  暢子のような女ならば、いつまでもつき合えるんじゃないかな、という気がする。結婚する気はないが、こういう女を妻にすれば、一生続いていきそうな気がする。  暢子はとうとう入って来なかった。それを無理に引っぱり込むことはない。風呂から出て浴衣を着る。彼女は入れ違いに浴衣を抱いて脱衣場に行く。それを抱きとめて、チュッとキスしてやった。あまり馴れていない女はあまり教え込まないほうがいいのだ。  音代はあまり遊ぶほうではなかった。奈央とつき合っていたのは五年前までだ。そのときはあっさり別れられた。セックスはしたがそれにのめり込むほどではなかったのだ。  それが四年ぶりに奈央と会った。音代はほとんど変っていなかった。だが奈央は変りすぎていたのだ。  音代には四年間、女は誰もいなかった。女房だけで足りていた。つまりセックスには淡白な男だった。それが奈央のような女と会ってしまった。  この二人がうまくいくわけはなかったのだ。奈央は音代にのめり込んでいく。音代は逆に冷めていく。その冷めていく音代にブレーキをかけたのは部長の椅子だった。  音代は奈央にサービスしなければならない。けんめいに勃起させたのに違いない。奈央にはそういう男の気持の変化がわからなかったのだ。奈央が音代に会いに行くときはいそいそとしていた。そういう奈央を一行は何度も見ている。  男の気持が冷めているとも知らないで。捜査本部で聞いたところでは奈央は妊娠してはいなかった。それなのに音代には妊娠したと言ったらしい。音代を欺《だま》すつもりではなく、奈央はほんとに妊娠したと思い込んでいたと思える。  想像妊娠ということがある。生理も止まり腹も膨んで来るのだそうだ。  妊娠した、と聞いて音代は殺意を抱いた。自分の子ではないかもしれないのだ。赤座社長に生殖能力があったかどうかはわからない。音代は知らなかったようだが、斉木淳という男もいた。  こういうときには、女は男に黙って堕して来るものだ。音代はそう思ったに違いない。持ち主のいる女だからだ。音代を愛していればなおさらだろう。愛していれば男のためにならないことはするはずがないのだ。  暢子は、浴衣姿で出て来ると、そのままベッドに入った。おそらく浴衣の下にパンティをはいていることだろう。この間ホテルに来たときもそうだった。  男に抱かれることに馴れていないのだ。どうせ脱がなければならないパンティをはいてくるのだ。  一行は部屋の明りを暗くしてベッドに上った。暢子のほうから抱きついて来てキスを求める。キスのやり方くらいは知っている。しきりに男の舌を吸ってくる。  彼は浴衣の上から胸の膨みに触れる。掴んで揉み上げる。わりに大きな乳房だった。だがまだ乳首は小さいのだ。衿の間から手を入れて生の乳房を掴む。彼女はうむ、とくぐもった声をあげた。  浴衣の上から、背中、腰と撫でるとパンティをはいているのがわかった。浴衣の腰紐を解き、下肢に回って、パンティを脱がせようとすると、イヤーン、と言って腰をひねった。体をつなぐまでには時間がかかりそうだ。  八章 自 白     1  鏑木一行は恵比寿のマンションから、まっすぐ水道橋に向った。赤座社長が呼んでいる、という連絡があったのだ。  水道橋から東景ハウスに向う。会社につくと受付に行く。落合暢子とは別のもう一人の女が電話をする。 「どうぞ、社長はお待ちかねです」  と言う。エレベーターで上る。社長室に入ると、女秘書が出迎える。赤座はソファに坐って一行を待っていた。 「鏑木くん、音代くんはどうだね」 「ぼくは、無罪だと思っていますがね」 「思っているだけかね」 「そう簡単には釈放されないでしょう。逮捕状が出ていますからね」 「それでは困るんだよね。第二営業部長の椅子をいつまでも空《あ》けておくわけにはいかんのでね。見通しはつかないのかね」 「つきませんね、音代さんには殺意と動機がありますのでね」 「以前から奈央を殺そうと思っていた、ということかね」 「社長にも責任はあるんですよ」 「責任だって」 「音代さんを部長にしたことですよ。それが最大の原因なんです。音代さんが奈央さんを殺しているとしたら」 「殺意と動機か」  と赤座は呟いた。 「しばらく出て来る可能性はないんだね」 「もう少し待ってやってくれませんか」 「今日、きみを呼んだのは、そのことなんだよ。今日明日にでも音代が出て来れば別だが、会社としても考えなければならない。わしの会社でも、会社は生きものだからね」 「つまり、ぼくの調査はもう止めろということですか」 「ふむっ、そうだな、音代のために、もう少し続けてもらおうか。そっちのほうはあわてることはないわけだ。次の第二営業部長を重役会で決めなければならんのでね。音代が出て来たら、椅子は考えよう。もし、音代に会うことがあったらそう言ってくれたまえ。わしも少し甘すぎたのかもしれんな。奈央の言いなりになりすぎた」 「もう奈央さんのことはお忘れですか」 「いつまでもくよくよしていてもはじまらないからな。わしも先がない。鏑木くん、麻生には真田圭子《さなだけいこ》という女を住まわせることにしたよ」 「奈央さんの代りがみつかったわけですか」 「女はいくらでもいる。圭子はいい女だよ。銀座のクラブにいた女だがね、あまり擦《す》れていないところがいい。もっとも奈央もはじめはそうだったがね」 「奈央さんも、草葉の蔭でよろこんでいるでしょう、自分の代りがみつかって」 「きみ、皮肉かね」 「いや、ホンネですよ。彼女は社長が淋しがるのを気にしていたでしょうからね」 「もう一つ、奈央のお母さんが亡くなったよ。昨日知らせがあった。ちょうどよかったんじゃないかな。娘のあとを追うように死んでいった」 「そうですか、よかったかもしれませんね」 「鏑木くん、きみは若いから、まだ考えたことはないだろうが、人は死ぬものだよ、どう死ぬかが問題だがね。わしは残り少ない人生をせいぜい楽しみたいね。人の死を悲しんでいる暇はないんだ。いずれは自分の番が回ってくる。死ぬのは順番だよ。人はみな、その順番を待っているだけなんだ。きみなんか順番が遠い先だと思っているかもしれんが、明日かもしれんのだよ」 「そう、順番がわからないから人は生きていけるんですね」 「だが、わしは順番が近いことを知っている」 「いやいや、まだ十年や二十年は大丈夫ですよ」 「気やすめは言わんでくれ。そのうち、きみに圭子の調査を頼むことになるかもしれんな。いい女というのは盗まれやすいからな」  それでは、と言って一行は腰を上げた。社長室を出る。特に赤座が冷めたいというのではないだろう。たしかに第二営業部長の椅子を空けてはおけないのだろう。  音代はせっかくの部長の椅子から滑り落ちたことになる。  麻生には別の女が住むことになる。パトロンというのはそんなものだろう。あるいは、赤座のそんな気持を知っていて、奈央は音代にすがりつこうとしたのかもしれない。二号とか妾《めかけ》とかいう女たちは、女としての魅力がある間だけ使われるのだ。  受付に手をあげてビルを出た。歩いていると、暢子が追って来た。 「ねえ、今夜も会って」 「おい、昨夜会ったばかりじゃないか」 「だって味をしめたのよ。鏑木さんと一緒にいると、気持が落ちつくの、ねえ、いいでしょう。どうせ、夜は仕事はないんでしょう」 「恋人といるよりいいのか」 「そうよ、恋人なんてつまんない。彼といたってストレスは解消されないんだもの」 「すると、おれはストレス解消剤か」 「そういうことになるわね。ねえ、一緒にお風呂にも入ってあげる。今日六時半、いつもの酒場で」 「七時にしてくれ」 「いいわ」  と暢子は走っていく。その尻のあたりを見ていて苦笑した。女というのはわからない。わからないというほど複雑ではない。女の気持の変化がわからないのだ。  暢子だって、昨日までは一行に誘われていやではないからついて来た、というだけの気持だった。ところが一日すぎてみると、暢子は一行に抱かれたい、と自分から思うようになった。女の気持がわからないのではなく、女の気持の変化のしかたがわからないのだ。  一行は電車に乗って秋葉原で乗り換えて上野に向った。  上野西署の捜査本部では、音代を犯人だと思い込んでいる。他には容疑者は出て来ない。奈央に対して殺意と動機を持っている者は他にはいないのだ。音代を犯人だと思い込んでも当り前だろう。あとは自白だけになる。  だが、一行は音代は犯人ではないと思い込んでいる。  音代は奈央に殺意を持って新潟に行っている。音代はどうして奈央と会えなかったのか。連絡がとれなかった、どこかですれ違った。会っていれば奈央を車に乗せ、山の中に連れ込み殺せた。そして穴を掘って埋める。できるだけ穴は深く掘る。そして奈央を埋める。  彼の計画は万全だったはずである。免許証だって他人のものを使った。殺した奈央だって身元が知れないように裸にしただろう。  埋めておいて何くわぬ顔で東京にもどり、部長の椅子に坐っている。何も支障はないはずだった。  それが、奈央殺しの容疑者になってしまった。奈央を殺すために車を借り、スコップまで買った。これでは殺意は弁解できない。  音代は、奈央に会えなくて、またチャンスはあるさ、と考えた。そのころ奈央が殺されるとは考えてもみなかった。それで車のトランクにはスコップを乗せたままだった。レンタカー会社にスコップは始末してくれ、と言ったのかもしれない。  自分が殺す前に、奈央は誰かに殺された。そのとき、音代はどう思ったのか。自分が容疑者になるなんて思いもしなかったろう。あるいは奈央を殺さずにすんだことをよろこんだのかもしれない。  一行は上野西署に着いた。財津主任は捜査本部にいた。 「ああ、鏑木さん」 「音代はどうですか」 「吐きませんね、殺していないの一点張りだ。だけど、そのうち落ちますよ。だって犯人は彼に違いないんだから」 「弁護士は来ましたか」 「来たよ、東景ハウスのね。赤座社長の女を盗んでおいて、赤座社長の弁護士を使うなんてね、甘ったれすぎる」 「財津さん、音代は部長の椅子を奪われましたよ。今日中に重役会議で次の部長が決まるそうです」 「当然でしょうね、いや、これは使えるな。これで音代はがっくり来るでしょう。部長の椅子が彼にはすべてだったようですからね」 「他に容疑者は出ませんか」 「もちろん、捜査はやめたわけではない。だけど音代以上の容疑者は出ないでしょうな。鏑木さんも思い当らないでしょう」 「当りませんね」 「まだ時間はたっぷりある。吐きます。吐かせてみせます」  と財津はしきりに力んでみせた。  一行は西署を出た。斉木淳に会ってみようと思った。電話ボックスをみつけ、三住銀行に電話を入れた。斉木は外回りである。彼は銀行にはいなかった。一時間ほどしたらもどると言った。一行は名前を告げておいた。  ボックスを出て歩きだす。  奈央を殺したのは彼女の周りにいた者たちだろう。殺意がよそから来たとは思えないのだ。奈央の周りにいたのは、まず赤座社長、麻生のお手伝い、そして音代俊行、斉木淳だ。その他にはいないようだ。一行は数ヵ月にもわたって奈央を張り込んでいた。電話の盗聴もした。  おかしな電話がかかって来たこともない。奈央のつき合いは狭かったのだ。新潟生まれである。だが、新潟の人たちとはつき合っていなかったと思える。新潟に高校の同窓生などいたのだろうが、赤座の二号になっていては、友だちともできるだけ会うのを避けていたはずである。  そう考えてみても、奈央を殺したのは音代以外にはない。赤座が殺すわけはない。お手伝いに殺意があったとは思えない。斉木淳は捜査本部に呼ばれている。だが帰されたところをみると容疑は晴れたのだ。  斉木は奈央にのめり込んでいた。もし、奈央と音代の関係を知っていれば、奈央よりも音代を狙っただろう。だが、音代のことは知らなかった。  奈央を憎んでいたはずはない。斉木に誘われると、いやいやながらでも会いに行っていた。奈央を恨むことはなかったはずである。  奈央が新潟に行くのを知っていたのは、赤座、お手伝い、音代、そして斉木も知っていただろう。  こう考えてみても奈央を殺したのは音代しかない。音代は疑惑の中心にいるのだ。捜査本部が音代と思うのは当り前のことなのだ。     2  新宿の喫茶『滝沢別館』に、斉木淳は先に来て待っていた。もちろん斉木は一行のことを知らない。 「どうも、鏑木です」  電話で話したのも今日がはじめてである。一行は名刺をさし出し、 「さっき電話でお話した通り、奈央さんの殺人事件を調査しています」 「どこかでお会いしましたか」 「あなたと西丸三香子さんのことは何度か尾行しましたのでよく知っています」 「ぼくは、尾行されていたんですか」 「赤座社長に頼まれて奈央さんを張り込んでいました。彼女はあなたと会うのはそれほど用心しませんでした。赤座社長もあなたと奈央さんのことは以前から知っていたようです」 「そうですか、知りませんでした」 「斉木さんは、奈央さんを殺していませんね」 「どうしてぼくが奈央を殺すんですか、ぼくは奈央に恋焦《こ》がれていたんですからね」 「奈央さんのどこに恋焦がれていたんですかね」 「どこと言われても、すべてでしょうね」 「遊ばれていたとは思いませんでしたか」 「遊ばれていてもよかったんです。もちろん結婚できるなどとは思っていませんでしたからね。理屈じゃないんですよ。好きだったんです」 「奈央さんに好きな男がいることは」 「何となく感じていました。だけど電話すれば会ってくれたし、ベッドに入ればいつもと少しも変りませんでした。だから、ぼくもその男のことはあまり気にしなかったんです」 「あなたには、西丸三香子さんという恋人がいるのに」 「奈央に比べると三香子はまだ子供でしたよ」 「三香子さんは、あなたを愛していたんでしょうね。あなたには奈央さんよりも三香子さんのほうがふさわしい、お似合いだと思ったんですがね」 「そう思うのは、あなたの勝手でしょう」 「でも、三香子さんを嫌いだったわけではない」 「それも、あなたにとやかく言われることではない、と思います」 「彼女は、あなたを愛していた」 「たとえそうだとしても、殺人事件には関係ないでしょう」 「ありますよ、彼女はあなたのために、奈央さんを殺した」 「まさか、そんなことが」  と斉木は薄笑いを浮かべた。 「あるわけはないですよね」  口から出まかせに三香子が奈央を殺したと言った。売り言葉に買い言葉というわけだ。だが、ほんとにあり得ないことだろうか。 「三香子さんは、あなたを奈央から救い出したかったんです。彼女にはあなたが蜘蛛《くも》の巣に引っかかった蝶のように見えた。奈央は女郎蜘蛛です。女郎蜘蛛を殺してしまえば蝶は助かる。たとえは悪いかもしれませんがね」  喋って来て、そういうこともあり得る、と考えた。 「三香子が、奈央を殺すなんて考えられない」 「もしかすると、三香子さんは左利きではないですか」  斉木はしばらく黙った。考えているのだ。 「どうして左利きなんです」 「奈央は右腹を刺されていた。そこには肝臓があります。肝臓を一突きにするには、左利きのほうが有利なんですよ。相手の真正面に立つと、左利きならばそのまま刺せます。右利きだと体を左に移動させなければならないわけです。暴力団員のようにナイフを使うのに馴れていれば、右利きでも肝臓を刺すのは容易でしょうがね」 「まさか、そんなことはあり得ない」 「いや、彼女が斉木さんを愛していれば、できないことではないでしょう」 「警察でもそう考えているんですか」 「いや捜査本部はそこまでは考えませんよ。捜査本部では殺された奈央に関り合った人たちしか捜査しません。つまり三香子さんは奈央とは関係ない。関係者の中にはいません。だから三香子さんに容疑をかけることはないわけです。それに刑事たちは愛情など考えない男たちです。彼女が斉木さんを愛していたからといって、問題にもしないでしょう」  斉木は、黙って聞いていた。三香子は捜査本部の捜査圏の外にいたのだ。 「しかし、それは無理です」 「無理ではないと思いますがね」 「三香子に人は殺せませんよ」 「おれもそう思います。だけど女は豹変《ひようへん》するんです。男の理解の及ばないところに女はいるんですよ。奈央が生きていては斉木さんのためにならない。そう思ったら殺せるんじゃないですか」 「違います」 「もし、三香子さんが奈央を殺していたら、斉木さん、あなたの責任ですよ」 「ぼくの責任?」 「あなたは、甘い蜜《みつ》の中に浸っていたかった。奈央を誘い出して、二時間か二時間半、あなたは甘い蜜に浸っていた。それが生き甲斐でもあった。もちろん、そのことを三香子さんは知っている。あなたは甘い蜜を捨てようとはしなかった。そのために三香子さんは奈央を殺した。となれば責任はあなたにあることになります」  斉木はうつむいた。そして小さな声で、 「奈央がぼくを捨ててくれればよかったんだ。好きな男ができたのなら。そうすればぼくは奈央を抱けなくなる」 「斉木さん、人のせいにしないほうがいいですね」 「でも、三香子が殺したという証拠はない」 「斉木さん、警察を甘く見てはいけませんよ。三香子さんには、奈央を殺す動機はあるんです。あなたを助け出さなければならないという動機が。そして、あなたをいつまでも縛りつけておきたいという気持から生まれた殺意もあったはずです。だがいまは捜査圏外にある。これが圏内に入れば、警察は徹底的に調べあげる。おそらくアリバイなどすぐに崩されますよ」 「そんな、恐ろしいこと」 「あなたは奈央を失った。そして三香子さんも失うことになる」 「そんなことはない。三香子が奈央を殺すなんて、そんな馬鹿な」  だが、斉木は完全に否定することはできないようだ。 「甘い蜜を舐《な》めた罰ですか」  一行は皮肉まじりに言った。 「三香子さんがもう一人殺していると思われるんです」 「もう一人?」 「十月二十三日に、同じ上越新幹線の中です。奈央だと思って朝永真弓という女性を刺したんです」 「冗談でしょう」 「冗談ならいいんですけどね、奈央がトイレに行くのをあとをつけた。そしてトイレの前で待っていて、出て来た女性を刺した。奈央は隣りのトイレに入っていて、第一発見者になった」 「その話は奈央から聞きました。女が倒れて血を流していた。それで膝がガクガクなったと。まさか三香子が」 「いまのところは何の証拠もありませんがね、調べれば出て来るでしょう」 「ぼくにどうしろ、というんですか」 「どうしろ、ということではありませんよ。斉木さんと話せば、何かが出て来るかもしれないと思っただけです。あなたと話して三香子さんが出て来ました。それだけでおれはあなたに会った価値があった」 「三香子のことを警察に言うんですね」 「いいえ、言いません。斉木さんが言うように、おれは何の証拠も握っていませんのでね」 「鏑木さん、ぼくはあなたを殺したい」 「無理でしょうね。おれを殺せばどうなるか知っている。殺せたとしてですがね。あなたは自分の人生のほうが大事なはずだ。だけど女というのは、自分の人生よりも、恋人を思う気持のほうが重くなることがある」 「ぼくはどうすればいいんですか」 「何もできないでしょうね。奈央と三香子さんのために少しは苦しんで下さい。今日喋ったことは三香子さんにも言わないほうがいいでしょうね」  それじゃ、と言って一行は伝票を摘んで席を立った。大衆酒場には落合暢子が待っている。暢子だってはじめは一行を拒んだ。それがいまでは、暢子のほうから会ってくれと言う。  歌舞伎町に向って歩く。  ほんとに三香子は、朝永真弓と奈央を殺したのか。何か確信があって言ったわけではない。ついポロッと言葉が出て来た。考えてみれば、三香子も奈央を殺す動機を持っている。  斉木は奈央を抱いたあと三香子と会っていた。三香子は斉木が奈央を抱いて来たことを知っていたはずだ。三香子は斉木と奈央のことを知っていた。斉木が奈央のことを喋ったのだろう。  奈央のことを喋っても、三香子は去っていかないという自信があった。その自信は三香子に対する甘えでもある。彼女はその度に奈央に対して殺意を持ったはずである。  酒場に入ると、むこうで暢子が手を上げた。けんめいに笑っている。彼女の席に近づく。 「来てくれないか、と思っていた」 「どうして、おれは約束は破らないよ」 「よかった。来てくれなかったらどうしようと思っていたのよ」 「恋人と会えばいいじゃないか、ちゃんといるんだから」 「あたしをいじめないで」  一行は暢子の向いに坐るとビールを頼んだ。     3  一行は浴室に入った。そして風呂に体を沈める。彼が住んでいるマンションにも風呂はある。だが、たいていはシャワーですましてしまうのだ。  ほんとに三香子が犯人なのか。自分で言い出しておいて、信じられないのだ。斉木が信じられないのは当然だろう。  三香子は間違えて、朝永真弓を殺した。それでも次の機会に奈央を殺した。彼女は目的を果したことになる。  朝永真弓は死ぬ前に�ジョ�と言った。犯人が三香子とすればそれもわかる。真弓は三香子を知らない。だから刺されて倒れ�ジョセイ�つまり女性と言おうとしたのだ。ジョは女性のジョだった。漢和辞典で�ジョ�を引いてみると、最初の文字は�女�である。  捜査本部も一行も、犯人は男だと考えた。だから�ジョ�がわからなかったのだ。頭の中で思い込むと、なかなか�女�は出て来ない。  殺人は荒事《あらごと》である。荒事には女は似合わない。それで頭の中で男と決めてしまうのだ。はじめに女だという発想があれば、�ジョ�はすぐにわかったはずである。  犯人は女かもしれないという発想があれば捜査本部でも三香子に目をつけたのかもしれない。  裸になって暢子が入って来た。もちろん股間はタオルで隠してはいるが、乳房が上下に揺れた。一行が入っている浴室に入って来たのは昨日がはじめてだった。それまでは男と一緒に風呂に入るなんてとんでもない、と言っていたのだ。  それが男に興味が出て来れば、男に肌をさらせるのだ。ベッドの上で肌をさらすのと風呂で肌をさらすのは違うのだろう。  暢子は体をお湯で流して入って来た。 「見ないで」  と言った。風呂の縁を跨《また》ぐときを見ないでと言っているのだ。湯があふれてザーッと流れた。向い合ってどうにか入れる。一行は手をのばして下から乳房を支えた。  まだ、女の乳房としては形がととのっていない。乳首が小さくて、乳暈が大きい。両方とも淡いピンク色をしていた。恋人はあまり乳首には触れないのか。乳房が湯の中でゆたゆたと揺れた。 「ねえ、あたしの体、きれい?」 「若いからね」 「若いだけなの」 「若さが第一だよ。若さはそれだけで宝なんだ」 「ほんとなの」 「きみはいま若いから若さの価値なんてわからない」  老人みたいなことを言う。  老人といえば赤座社長がいる。赤座には若い女の価値がよくわかっているはずだ。奈央にのめり込んでいた。奈央に頼まれれば何でも聞いてやっていた。だが、奈央が死ねば、すぐに次の女を探したのだ。  真田圭子と言った。どんな女なのかは会ってみなければわからないが、いい女だろう。銀座のクラブで探して来たのだから。人生の残りが少ないから、せいいっぱい楽しみたいのだと言った。若い女を抱くことによって赤座も若返るのだろう。  会社をやっていくには、まだ老いてはいられないのだ。サラリーマンだったら、停年になると、すぐに老人になってしまう。若い女を求めても得られないことを知っている。だから諦めてしまうのだ。  暢子は湯の中で手をのばして股間のペニスに触れて来た。こわごわである。これまで自分からペニスを握ったことはないのだ。昨日は握らせようとすると、イヤッ、と手を引っ込めたものだ。女は昨日と今日では違う。  湯の中の暢子の手を見ていた。 「どうしたらいいの」 「どうもしなくったっていいんだ」 「でも、気持よくないでしょう」 「握られているだけで気持いいものだよ」 「ほんとに」  と言った。一行は湯槽を出て体を洗う。彼女は風呂の中から、珍らしいものを見るように彼の体を見ていた。泡を流して湯槽にもどると、暢子は外に出て体を洗いはじめる。横を向いているので乳房の膨みとむっちりと肉付いた腿を見ていた。  女が体を洗うのをこうして眺めているのも悪くない。乳房が上下に揺れる。体つきからすると乳房はいくらか大きいようだ。  一行は体を拭って浴室を出た。浴衣を着て、冷蔵庫からビールを取り出し、プルトップを抜いた。ビールを咽に流し込む。湯上りのビールはうまい。体は適当に怠くなっていた。疲れたというのではない。さきほどビールとハイサワーをのんだからだ。風呂に入ったのでアルコールが体に回ったのだろう。  ビールを空《から》にするとベッドに仰向けになった。円型ベッドである。天井には一面に鏡が張ってあった。  暢子に比べると三香子のほうが背も高いし美人である。のびやかな体をしていた。あんな恋人がいながら、とは言えないのだろう。美人の奥さんを持っていても男は浮気するものだ。美人ではない奥さんを持っていても浮気しない男も多いが。  奈央を思い出してみる。ねっとりと絡みついて来るような女だ。同じ美人でも三香子とは違っている。もっとも、これまで一行は奈央のような女は知らない。だからどのように絡みついてくるのかは知らない。  斉木は奈央の体に夢中になった。音代は奈央の体に飽きた。一行もしばらくつき合っていると飽きるだろうと思う。美味なのははじめの何回くらいだろう。おそらく刺激が強すぎるのかもしれない。  暢子が胸に重なって来た。衿を開いて男の胸に唇を押しつけてくる。並の男に比べると胸は厚かった。彼女の背中に手を回して撫でてやる。まだパンティをはいていた。一行は苦笑した。パンティをはいてベッドに入るものと思い込んでいるらしい。 「どうしておれといるほうがいいんだ」 「だって彼はまだ子供だもの」 「子供っていくつ」 「あたしより一つ上」 「すると二十五か」 「彼ったら、いつもしたがるのよ。部屋に入ったらすぐに押し倒して重なってくるの。それなのにすぐに終ってしまう。つまらないの。この間なんか、三十分足らずで三回も出したの。出すためだけにあたしをホテルに誘ってるみたい。三十分で三回すまして、もうあとはすることはないの。三回出して彼は満足したみたいだけど、あたしはつまんない。セックスってつまんないものだと思ってた。それが鏑木さんとは違っていた」 「どう違っていた?」 「それをあたしに言わせるの」 「言ってみろよ、二人だけだろう。誰も聞いてはいない」 「だって恥ずかしいわ。あたし今日、はじめてあなたの握ったの。これまで一度も手にしたことなかったのよ。彼とはそんな暇なかったんだもの」  そう言って彼女は股間に手をのばして来た。浴衣の裾をめくって、そこにあるペニスを握った。 「いやらしいものだと思ったけど、いまはそんなにいやらしくない。堅くて頼り甲斐がありそう」  斉木は奈央と三香子の二人を抱いていた。奈央を抱いたあと三香子を抱いたのだ。もちろん三香子は奈央には遠く及ばなかったはずである。斉木は三香子に、奈央のよさを喋ったのかもしれない。それを聞いて三香子は奈央に殺意を覚えた。  いろいろ考えてみると、三香子の殺意がわかってくるような気がする。奈央を殺すのははじめは斉木のためだったのかもしれない。だが、自分のためでもあった。  一行は起き上ると、暢子の浴衣を脱がせた。そしてパンティをめくるようにずり下げる。 「いやっ、恥ずかしい」  と抵抗した。それにかまわず全裸にした。素っ裸の暢子を抱き寄せて、腿の間に膝頭をねじり込んだ。金串に刺されたうなぎのようなものだ。これで彼女は動けなくなる。  乳房を掴んで揉み上げる。揉み甲斐のある大きさだ。だが暢子はそれほどには感じないらしい。手をはざまに入れた。膝がはさまっているので閉じられない。クレバスを指で割った。だが、そこはまだ潤んではいなかった。未熟な女は反応が遅い。これでは彼が三回放出してもほとんど感じないで終るのかもしれない。ゆっくりと時間をかけてやるしかないのだ。     4  音代俊行は留置場に坐っていた。留置場にいても寝ているというわけにはいかないのだ。取調べのために引っぱり出されるまでは坐っていなければならない。 「ぼくには運がなかったのだ」  と呟いた。妻の章子と子供二人のことが頭に浮かぶ。章子は着換えを持って来た。もっとも面会はできなかった。そのほうがよかった。妻の顔を見るのはつらい。  どうしてこんなことになってしまったのか。奈央を殺していないのだから、すぐに釈放されると思っていた。それなのに逮捕状が出たのだ。これはショックだった。捜査主任は、動機と殺意があるのはあんた一人だ、と言った。  考えるまでもなく動機はあったし殺意もあった。他には動機と殺意のある者はいない。捜査本部は探し出せないのだ。一体誰が奈央を殺したのか、全く思い当らないのだ。  はじめのうちは、すぐにでも犯人が逮捕され釈放されるものだと思っていた。安易に考えていた。それが逮捕状が出て、ガックリした。  アリバイはちゃんとあるつもりだったのが崩れてしまった。こうなったら、ぼくは殺していない、と言っただけでは駄目なのだ。殺していない証明をしなければならない。俊行はその証明ができないのに気付いた。  たしかに奈央を殺すために新潟に行った。ドライブを楽しむためだったと言っても通らない。奈央の母親が危篤だったのだ。ドライブなんかできる心理状態ではなかった。  奈央を山の中に連れ込むためにレンタカーを借りた。それも他人の免許証で。これも弁解はできない。身元を隠すために拾った免許証を使った。  その上に、奈央を埋めるためにスコップまで買った。何でスコップが必要だったのかは説明できないのだ。  その上で、ぼくは殺していない、と言っても通らない。何日か留置場に坐っていてわかって来た。アリバイだって簡単に崩れた。奈央を殺してもどって来れる時間だとは知らなかった。もちろん、計算などというものはなかった。  あと三十分早くレンタカー会社に行っていれば、完全なアリバイだったのか。その三十分、自分は何をしていたのだろうと思う。何もかもついていなかったのだ。  奈央は母親の危篤で新潟に行かなければならないから、今日は会えないと言った。それで同じ第二営業部の原田久美子を誘った。女が欲しかったわけではない。何となく一人でいたくなかった。家にも帰りたくなかった。  自分でもチャンスだ、チャンスだと思っていた。このチャンスを逃せばまたというチャンスはないだろう。  彼は新潟へ向った。計画は万全だったはずである。地図を見て、どのあたりの山に行くかも考えていた。穴はできるだけ深く掘る。深く埋めれば死体は出て来ない。  奈央とはすぐに会えるつもりだった。駅から新潟中央病院に電話した。奈央は病院にいたのだ。看護婦が、いま院長とお話していらっしゃいます、と言った。  音代はレンタカーを借りた。そして市中を走りながら金物屋をみつけスコップを買った。電話するよりも直接行ったほうが早い、と思って病院に駆けつけた。  この辺が運だったのだろう。病院に行くと奈央はいま出たところだという。母親の容態は落ちついたので、とりあえずは東京に帰ると言って出たのだ。ほんの五分ほどの違いだった。  音代は病院をとび出し、あたりを探した。だが見当らない。それでまっすぐ駅に向った。東京に帰るのなら新幹線だろう。新潟駅に着いて探しまわった。それでも奈央の姿は見えなかった。  そんなに早く新幹線に乗ったわけはない。タクシーで来ても、彼より早くはなかったはずである。何時の列車に乗るのかわからない。それで改札口を見張った。 『あさひ三二○号』に乗ったのだ。その列車も張り込んでいた。それなのに奈央をみつけられなかった。どこかですれ違ったのだろう。待っている間に煙草を買い行った。それでも改札口からは目を離さないようにしていた。運がないというのはこういうことだ。  奈央はどこへ行ったのかわからない。奈央の実家はあるが、いまは誰も住んでいない。そこへ立ち寄るわけはないのだ。新潟には友だちもいないのだ。  次の機会にと音代は諦めた。次のチャンスはなかったわけだ。まさか新幹線の中で殺されるとは思わなかった。だが、奈央が新幹線の中で殺されたと聞いたときは、助かった、と思った。  殺そうと思っていたのに殺さなくてすんだ。殺さずに奈央と別れられたのだ。どんなに奈央の死を願ったことか、交通事故で死んでくれればいい、誰かに強姦されて殺されればいいとバカなことも考えていたのだ。それが誰かに殺された。降って湧いたような幸運だと思った。自分が容疑者になるなんて、思ってもみなかったのだ。  殺さなくてよかったことをよろこんだが、ほんとは殺して埋めたほうがよかったのだ。  昨日、財津主任から、営業部長の椅子を降ろされたことを知った。これも当然だろう。赤座社長が寵愛していた奈央を殺そうとしたのだから。  もちろん、そのことで俊行の体から力が抜けた。殺そうと思った、そのことだけで赤座を裏切っている。殺したも同じだった。  考える時間はたっぷりあった。東景ハウスに入社して以来このような余裕のある時間はなかったのだ。 「どうしてこんなことになったんだ」  奈央に会ったために人生が変ってしまった。もちろん、俊行がしっかりしていればこんなことにはならなかった。部長にしてくれたのがよくなかった。  週に一回だけだが、奈央とのセックスに耐えられなくなっていた。激しくて濃厚なセックスは彼には合わなかったのだ。奈央とのセックスがよかったのは、ほんの四、五回だった。水曜日が苦痛になった。  だが部長になった。それでまた別れられなくなった。どうして俊行の気持を考えてくれなかったのか、と思うのは得手勝手だろうか。  奈央を殺そうと考える前に、会社を辞めて再出発する勇気が欲しかった。部長のままで奈央と縁を切ろうと思ったのが間違いだった。奈央だけが悪いわけではなかった。赤座社長の出版記念パーティで奈央と会わなければよかったのだ。  鉄格子の前に警官が二人立った。 「音代俊行、取調べだ、出なさい」  と言った。俊行は立った。足がよろめいた。留置場を出る。そこで手錠を掛けられた。まるで刑事もののテレビドラマを見ているようだった。  そのまま取調室に入れられ椅子に坐る。財津主任はすぐには現われない。かなり待たされることはわかっていた。警察のやり方というのもわかって来た。  拷問みたいなことはやらない。刑事が怒鳴ったり机を叩いたりもしない。財津は優しい喋り方を変えない。だが、心理的に追いつめていくことを知っている。俊行はかなり追いつめられていた。  やっと財津が姿を見せ、向いに坐った。 「どうですか、留置場の居心地は、部長さん、いや、もう部長さんではなかったんですな、失礼しました」  財津という男はこういう喋り方をする。 「どうです、一本」  と煙草の箱をさし出した。俊行は一本を抜いた。そして百円ライターで火をつけてやる。 「おい、手錠を外してやらんか」 「でも、主任」 「大丈夫だ。この人は逃亡するような人ではない」  別の刑事が手錠を外す。 「音代さん、ずいぶんがんばりましたな。インテリとしては立派ですよ」  俊行は煙草を吸った。うまかった。 「帖佐奈央を殺したんでしょう」  殺していない、と怒鳴るだけの気力はなかった。怒鳴ってみたところで、むなしいだけなのだ。 「斉木淳は、帖佐にのめり込んでいた。彼女に会ってくれ、と泣いて頼んでいたそうだ。お手伝が証言している。あなたは殺意を覚えるほどに憎んでいる。これは体質の違いですかね」 「そのようですね、ぼくは奈央の体が虫酸《むしず》が走るほどにいやでしたね。さまざまなテクニックを使う。財津さんなんか思いもつかない方法ですよ。赤座社長に教えこまれたんでしょうね。以前の奈央はあんな女ではなかった。女の変りようは信じられませんね」 「でも、はじめはよかったんでしょう。彼女は美人だ」 「一ヵ月ほどはね」 「どうしてそのとき別れなかったんです」 「勇気がなかったんですよ。部長になんかならなければよかった。サラリーマンの宿命みたいなものですね。部長になったときには奈央に感謝しましたよ」 「人生は男にとって楽ではありませんよ。どこに罠が待っているかわかりません。あなたは甘美な罠に嵌《はま》ってしまったんですよ」 「財津さんはよくわかっておられる」 「われわれもサラリーマンですからね」 「もう一本、煙草いただけませんか」  財津はニヤリと笑った。     5  一行は、電話のベルで目をさました。昨夜は落合暢子を家まで送ってやり、恵比寿にもどって、また一人で酒をのんだ。何となく酒を呑みたい気分だったのだ。時計を見ると九時半になっていた。受話器を把《と》った。調査部だった。 「鏑木さんに電話くれとのことです。女性からです。西丸三香子さん、ご存知ですか」 「知っています」  調査部員は電話番号を教えた。そのナンバーのボタンを叩いた。三香子が何の電話だろうと思った。電話はつながった。 「鏑木と申しますが、三香子さんお願いします」 「三香子はあたしです。鏑木さんのこと、淳から聞きました。お会いできませんか」 「おれのほうはいつでもけっこうです」 「それでは、十一時に新宿の『滝沢別館』二階のほうですけど」  知っています、と言うと、では、と言って電話は切れた。  三香子には言わないほうがいい、と言ったのに、斉木淳は喋ってしまったらしい。自分の胸一つに収めておくことのできない男だ。三香子は、一行に何を話そうというのか、すべてを白状する気になったのか。それだったら自首すればいい。それで男の一人が助かるのだ。  一行は顔を洗い髭を剃り外出の支度をした。ちょうどいい時刻だった。新宿の『滝沢別館』に入ったのは十一時に十分ほど前だった。店内を見回したが三香子の顔はなかった。一行は三香子をよく知っているが、彼女は一行を知らないはずだ。  十一時になって、三香子はプロポーションのいい姿を見せた。一行は手を上げなかった。彼女は店内を見回し、一行のところにまっすぐに歩いて来た。 「鏑木さんですね」 「そうです、よくわかりましたね」 「あたしのイメージにぴったりでしたから」 「なるほど、調査員に見えるわけだ」  三香子は珈琲を頼んだ。わりに落ちついていた。 「失礼ですが、録音機はお持ちじゃないでしょうね」 「ありません。調べてみますか」  と一行は立ち上った。 「いいえ、けっこうです、信用します」 「そう簡単に信用されても困るけど」 「どっちにしても同じことですけど、あたしのこと捜査本部にお話しになりました?」 「いいえ、まだですけど。昨日、斉木さんにも、言うつもりはない、と言っておきましたが」 「でも」 「信用できなかったんですね」 「あたし、鏑木さんとお会いするの今日がはじめてですし、あなたをよく存じません」 「なあに、ただの調査員です」 「どちらともとれますが」 「どういうことですか」 「お金に興味のある方かない方か」 「なるほど、わかりました。あなたがおれをここに呼んだわけが」 「わかっていただければけっこうです」 「その前に話を聞きたいですね」 「おそらく、鏑木さんが一言警察におっしゃれば、調べ出されてしまうでしょうね」 「あなたは、朝永真弓と帖佐奈央を殺しましたね」  三香子の目がキラリと光った。 「殺しました。おそらくあなたのお考えの通りだと思います。さすがは鏑木さんです」 「おれをおだてたって駄目ですよ」 「でも、よくあたしのことをご存知でしたわ」 「ええ、おれは帖佐奈央を張り込んでいましたので。斉木は奈央と会ったあと、あなたと会った」 「ええ、そんなこともありました。警察はあたしのことは気付いていません。でも鏑木さんは知った。そしてあたしを疑った」 「調査員の調査は刑事とは違いますからね。朝永真弓から話してくれますか。その前にあなたが奈央を殺した動機を聞きたいですね」 「あなたの考えていらっしゃる通りだと思います」 「愛情ですか」 「それだけではありません。あの女が憎かったんです。古い言葉で言えば女郎|蜘蛛《ぐも》のようなあの女が。あたしも淳を尾行して、あの女に会いました。いいえ、見たと言うべきでしょうね。淳があんな女に夢中になるのがわかりませんでした」 「朝永真弓を刺したのは間違いだったんですね」 「間違いました。あの女がトイレに入るのを見ておけばよかったんですけど、あたしがあの場所に行ったとき、トイレは二つとも使用中でした。ドアが開きました。とっさにあの女と思ったんです。刺してから別人だと気付きました。急いで逃げました」 「あなたは左利きですね」 「ええ、ペンと箸《はし》以外は」 「奈央が新潟に行ったのをどうして知ったんです」 「淳から聞きました。淳はあの女のこと何でもあたしに話したんです。何でもです。彼女が淳にどのようなことをしたかもです」 「あなたはつらかったでしょうね」 「いいえ、それほどでもありませんでした。でもそれが憎しみを増幅させていったのかもしれません。自分が気付かなくても、深く重くなっていくのかもしれません」 「斉木もひどい男だ」 「あたしは淳を愛しています。淳のためだったら何でもします。現に二人の女を殺してしまいました」 「男と女というのは妙なものですね」 「音代という人があの女を殺したいと思ったのもよくわかります」 「奈央の立場になってみると、彼女は淋しかったんですよ、だから音代にしがみつこうとした。奈央もあなたにではなく、音代に殺されたほうがよかったのかもしれない。二号にしたってメカケにしたって、淋しいものだと思いますよ。そうだ、新潟の奈央の母親は亡くなったようです。奈央は母親が入院したために、ホステスとなり赤座のメカケになったんです」 「そうですか、亡くなったんですか」 「奈央も、あの世で肩の荷を降ろしているところでしょう」  三香子は黙った。 「あたしはまだ若いんです」 「そうですね」 「一千万円、用意できます」  一行はマイルドセブンに火をつけた。そしてゆっくり煙を吐く。 「あなたは、何か勘違いしている」 「でも」 「おれは、捜査本部にあなたのことを言うつもりはない。だけど、一週間後には刑事が逮捕状を持ってあなたのところに行くかもしれない」 「それでもいいんです」 「もし、刑事が行かなかったとしても、あなたは十五年間を苦しむことになる」 「それも覚悟しています」 「強いですね、あなたは」 「一千万では少ないですか」 「おれはお断りしたいな。一千万円受け取ればおれは悪徳調査員になってしまう。もともと善人ではありませんけどね。おれはいまの生活をけっこう楽しんでいるんだよ」 「駄目ですか」 「あなたは勝手に苦しむがいいさ。おれはあなたの手助けなんかしたくない」 「いい人なんですね」 「おれがですか、冗談じゃない。昨夜は恋人のいる女を口説いて抱いたんですよ。いい人なんかであるわけはない」  ポケットベルが鳴った。あわてて音を止めた。このベルの音というのは心臓によくない。 「ちょっと失礼します」  と言って電話に立った。赤電話は店のドアの外にある。男が電話していた。話は長くなりそうだ。 「すみません、急いでいるんですが」  男はジロリと一行を見た。 「三度目は言わないよ。おれは急いでいるんだ」  男は仕方なく電話を切った。会社に電話を入れる。調査員が出た。 「上野西署の財津さんが電話欲しいとのことです」  電話を切って、西署に電話をした。電話を切ると、さっきの男が立っていた。 「おい、ちょっと顔貸してもらおうか」  さっきの一行の言い方が気に入らなかったらしい。一行はいきなり拳を男のボディに叩き込んだ。うっ、と声をあげて体を二つに折るところを、アッパーカットを突き上げた。男はのけ反り、そばの階段を転《ころ》げ落ちていった。  席にもどった。 「音代は自白したそうですよ」 「どうして?」 「面倒になったんでしょう。刑事にねちねちとしぼられて。でも音代が有罪になったのではありません。裁判で逆転するかもしれませんからね」 「あたしはどうしたら?」 「刑事があなたの前に立つまで、生きていくんですね。おれは、あなたには何もしてあげられないんですよ」  伝票を摘んで立ち上った。 〈時刻表は、一九九○年一○月号を使用しました〉 本作品は、一九九一年二月、小社より講談社ノベルスとして刊行された。 本作品講談社文庫版は、一九九四年七月に刊行された。 新潟発《にいがたはつ》「あさひ」複層《ふくそう》の殺意《さつい》